見出し画像

Yabucogiは「大人も子どもも」


大人と子どもの境界線をなくす

今回はYabucogiのやりたいことの1つ

大人と子どもの境界線をなくす

を紹介していきまーす(*^_^*)

言葉のニュアンスがあるので、うまく伝わるかわかりませんが
伝わるように、分解がんばります!!

僕らは小さい頃から、
「これからは君たちの時代だよ」
的なことを言われて育ってきたように思います。

特に高校生くらいになると、いろんな先生が言っていたように思う。
その言葉に、自分の作りたい未来が待っている様に感じたり、
未来に対する責任みたいなものをうっすら感じていたように思う。

ところが受験になると、そんなことはおかまいなしに
「どの大学ならあなたはいけるか」
ということが学校生活やその時期の生活の考えの主役になる。
「そうゆうもんだ」と思って生活していたので、嫌やなーとは思いつつも
しっかりと受験生になる。

晴れて大学生になり、さーいざ卒業するよ、となると次に待っていたのは
「どの会社ならあなたを受け入れるか」
という関門。
またしても大人にどう評価されるか、という壁が待っていた。

そうして社会人になると次は大人たちに評価されるための自分でいる活動が始まる。

「あれ、僕たちの作りたい未来はどこにいったんや?」

これ、起っちゃいがちやと思うんです。

でも、この流れはもう止めなあかんですよね。

学校を卒業してから
「ヨーイどん!それぞれ自分の強みでがんばれ!」
という投げ出し方ではなく、子どもの時から
「社会は自分たちが作っている・作っていく」
ということをやっていくべきだと思うんですよね。

学びや成長の幅のボーダーレス化が起こっている現在で
「大人の許可をもらいながら育つ子ども」
を作る必要はないと思うんですよ。
興味や関心ごとにぶっこんでいく子どもが増えた方がいいし、
興味のないことや苦手なことで否定されて、
スピードダウンするということは減った方がいい。

でもそんなんすると社会秩序が・・・躾が・・・立場が・・・
ということも考えると思うんだけど

「大人もともに学んだらいいし、ともに遊んだらいい」

解決方法は
「大人もともに学んだらいいし、ともに遊んだらいい」
だと思うんです。
アプローチは先に大人やと思っています。

大人って役割を演じてしまいがち。
実際に持っている責任も役割もあるけど、
「大人だから」
という理由で行動の制限や可能性の制限もしていると思う。
ましてや社会的な責任・立場という言葉の中で
自分の人生がどういう形で終わればいいのかということすら、なんとなく用意してしまっている。

「そんな未来誰が用意したん?」

関係ないですよね。
大人こそ遊ばないといけないし、感じないといけないし、学ばないといけない。

今アンラーニングやリスキリングが注目されているけど、
それが当たり前に日常に存在していればいいよね。
面白そうと思ったらやる。あかん!と思ったら離れる。
あかんと思ったけど、やっぱりやりたいからやる。

子どもってそいうことのプロじゃないですか。
興味にぶっこむプロなんですよ。
大人は先読みしたり、順序だてたり、経験から予測したりするプロですよね。

ほなかけ算にして、一緒にやったらいい。
子どもと大人の役割分担をしっかりわけちゃうから
「与える存在としての大人」
「教わる存在としての子ども」
って構図ができちゃう。
こどもが大人に教えても全然問題ないし、
大人が子どもと遊んでも全然問題ないし、
協働して何かを生み出しても全然問題ない。

日常の中に仕組みを埋め込む

社会ではそうゆう場面がチラホラ出てきてるけども
それが学びや成長の主体になればいいと思っています。

「自分に何ができるか」

というフォーカスをなんとなく子どもの時から持っている。
そうしてできること同士のかけ算で、ことを起こしていく。
そんな環境が作れたらいいなーと思っています。

といことで、Yabucogiでは

①大人子どもが一緒になって遊ぶ場面
を意識的に作っていくし
②子どもに大人が教わる場面
も作るし
一緒に何かを生み出す場面
も作っていきたいと思っております。

そういうことをして、大人子どもの領域分担を薄くして

「自分が社会を作っているんだ」
「自分は社会に影響を与える力があるかも」

ってなんとなくニコニコワクワクニマニマする人を
生み出すべく、いろいろ企み、行動している今日この頃なのです。

今日はここまで。
うまいこと伝わったことを願います(笑)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?