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『 高校時代 2 』

高校に上がった春、千葉医大に父のお見舞いに行った。

もう、この頃かなり具合も悪く、肝硬変になっていた。

何度も手術で、部分的に取り除いてきたが

いよいよ、それも不可能になった。

昭和の医療はまだできることが限られ、もちろんCTもMRIもない時代だ。

担当医に呼ばれ、母と、僕と妹の三人で話を聞く。

「 残念ですが、長くてあと半年でしょう 」

母は泣き出し、うなだれた。

まだ15歳の僕は、どうしていいかわからず

ただ、ただ黙っていた…。

その後、父は入退院を繰り返し、黄疸などの

症状も、徐々に見られ始めた。

父は、僕と顔を合わすたびに、

おい。ヤス。おめぇはカタギになれ。

と、言われた。(中学生の時から言われていた)

おめぇは、キッタハッタの世界じゃ

生きていけねぇ。だから、カタギになれ。

それはむしろ、口癖のようになっていた。

もちろん、僕はヤクザになる気なんて、さらさらなかったのだが

それでも、父は何度も、何度も言った。

極道の世界の、辛さ、厳しさをわかっているからの言葉だ。

高校2年に上がり、例の『ananに載る』妄想は

僕の中では、現実味を増し、

あるとき父に言った。

『 お父さん、僕は卒業したら美容師になります。』

父は喜んで、そっか そっか「パーマ屋」になるんか。(パーマ屋って…)

そりゃいい。おめぇに向いてんじゃねぇか。

そんなこんなで、2年のうちに進路は決まった。

3年に進級してすぐ、僕は有名な美容専門学校の

体験入学を率先して受けた。

候補は決まった。山野美容専門学校か、ハリウッド美容専門学校。

10月頃に、先に山野を受験し、無事合格。

自分なりに、いろいろ調べて、(当時はインターネットなんてなかった)

美容室 shimaの、シマ ヨシノリ先生が

山野の出身ということもわかった。

結局、ハリウッドは受けず、そのまま

山野美容専門学校に行くことが決まった。

父も、母も喜んでくれた。

つづく

修学旅行の写真。たしか、ここは倉敷だったと思う。
左から二番目が僕である。

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