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大阪城探訪

大阪城の歴史と建築

築城の背景と建造 大阪城は、日本の戦国時代にあたる16世紀後半に、豊臣秀吉によって築かれたことは皆さん子存じでしょう。
当時、秀吉は日本の統一を目指す野心家であり、戦国大名としての台頭を果たしました。秀吉は天下統一を成し遂げた後、自らの権力を確立するために、安全な拠点として大阪に城を築くことを決定しました。築城は1583年に始まり、それから14年の歳月を経て1597年に完成しました。大阪城の建築は、当時の最新の城郭技術を取り入れ、その規模と堅固さで知られています。城は水に囲まれた位置に建てられ、天然の防御要素として機能しました。また、城の周囲には堀や城壁が設けられ、攻撃からの防御を図りました。

戦乱と城の運命

大阪城は築城以降、日本の歴史的な転換期において重要な役割を果たしました。特に大坂の陣(1614年〜1615年)は、大阪城が戦場となり、徳川家康率いる東軍と豊臣氏の西軍との間で行われた壮絶な戦いでした。この戦いは、豊臣氏の滅亡と徳川幕府の確立を決定付ける重要な出来事でした。大坂の陣の結果、豊臣氏は敗北し、大阪城は徳川家康の支配下に入りました。

幕末から現代への変遷

幕末期には、大阪城は再び戦乱の舞台となりました。幕末の動乱期には、薩摩藩や長州藩などの諸藩が幕府と対立し、大阪城はその影響下に置。れました。しかし、明治維新後、大阪城は歴史的な建造物として保存され、その価値が再評価されるようになりました。
現代では、大阪城は観光名所として国内外から多くの観光客を魅了しています。また、大阪城公園内には博物館や庭園があり、城の歴史や文化を紹介する施設も整備されています。大阪城は、日本の歴史と文化における重要な遺産であり、その存在は知らぬものがいない存在となっていますね。

大阪城に入城

さて、ここは過去に二度ほど訪れていて、その例や存在感以外展示物にはあまり価値観はありませんが、やはり、大阪城自体の存在感は別格です。
その現在の天守閣が復興されて83周年になるそうです。この大阪城天守閣は間違いなく大阪のシンボルで、なにわっ子の心のよりどころでもありますね。
豊臣秀吉が築いた大坂城天守閣は大坂夏の陣で炎上するまで33年間。徳川幕府が再建した大坂城天守閣は落雷で炎上するまで39年間の寿命だったそうです。しかし三代目の現天守閣は第二次世界大戦の空襲もくぐり抜け、80年間以上も大阪市民をはじめ全国の人々から愛され、親しまれてきたのは、やはり秀吉という特殊な庶民キャラが日本の天下を統一したということに大阪市民は心のよりどころとしているのではないでしょうか。
展示物解説しても仕方がないので、今回はこの大阪城にまつわる歴史を、朝日放送歴史街道ロマンへの扉を引用しつつひも解いてみました。
出典:朝日放送歴史街道ロマンへの扉

秀吉の築城

今、大阪城のある上町台地は古代には難波宮があった所。そこに浄土真宗本願寺八世門主・蓮如上人が、晩年の明応5年(1496)隠居所として大阪御坊を建立、これが後に難攻不落の城砦でもある石山本願寺となった。蓮如上人御文章に「大坂」と書かれた地名があり、これが文献に表れた「大坂」と言う地名の最初のものである。
浄土真宗の山科本願寺が天文元年(1532)に焼き打ちにあい、石山本願寺が浄土真宗の中心地となって城砦化した。門徒たちが結集し、政治的、経済的に自立を目指す一大軍事集団となり、宗祖・親鸞像とその血脈の門主がいる石山本願寺を命を賭して守ろうとした。
石山本願寺は天下統一を図る織田信長に強く抵抗し、元亀元年(1570)からの石山合戦は足かけ11年にわたったが、最終的には石山本願寺は信長に奪取された。

石山合戦の絵

本能寺の変の後、天王山の戦いで明智光秀を破って信長の後継者になった豊臣秀吉は天正11年(1583)石山本願寺跡に大坂城の築城を始めた。築城当初は一日2、3万人、後には5、6万人が築城現場に動員され、これらの人たちが現場付近に住み、必然的に城下町が形成されていった。

大坂夏の陣図屏風には、最上層の回廊の上下の黒い壁に金色の鳥獣が描かれている。回廊下の虎の絵は一面に2頭ずつ、4面に計8頭の猛虎がにらみをきかしていた。上壁には空を舞うサギがこれも1面に2羽ずつ8羽描かれていたと見られる。秀吉が外壁画に描いた虎とサギで何を表現しようとしたのかは定かではない。
昭和の復興ではサギが吉祥のシンボル鶴に変わっているとのことだ。豊臣時代の大坂城天守閣は地上約39m、望楼式の5層、屋根は華美な金箔瓦が乗り、豪壮華麗な城だったらしい。
秀吉築城の大坂城を現代の工事費に換算すると約780億円、豊臣時代の大坂城2km四方の工事を含めると約5兆円にのぼると、昭和の天守閣復興、平成の大改修を担当した大手ゼネコンの大林組が試算している。
秀吉のこの巨大プロジェクトの大阪城築城が商都・大阪への発展の出発点になっているのは間違いない。

大阪城屏風図

大坂城は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で落城、豊臣家は滅亡した。その後、大坂は幕府直轄地となり、元和6年(1620)徳川2代将軍秀忠が大坂城の再建を始めた。秀忠は普請奉行の藤堂高虎に「石垣も堀も旧城の倍にせよ」と命じ、これまでにない巨石も多く使用され、約10年かけて大坂城は再建された。
大坂城再建の土木工事の総奉行は旧豊臣時代の大名で築城の名手と言われた藤堂高虎、建築工事は徳川幕府旗本の小堀政一(小堀遠州)だった。小堀遠州は桂離宮、二条城などの建築・造園などで知られているが、徳川再築の大坂城の建築総責任者だったことを知る人は少ない。再建工事は北陸、東海から九州まで63藩の大名に課せられ過酷な負担となった。これは各大名の経済力を低下させる徳川幕府のねらいでもあった。
 再建された大坂城は、城郭の面積こそ豊臣時代の5分の1に縮小されたが、石垣や天守閣の高さは豊臣時代のものを圧倒した。高さ58mを誇った高層天守閣も寛文5年(1665)落雷で焼失、再建からわずか39年間の命だった。

重要文化財 大坂夏の陣屏風図

今日、目にする大阪城の石垣は多くの人は秀吉が築城した時のものと思われているが、地上に残る石垣などはほとんど徳川幕府の再建以降のものである。徳川秀忠は大坂城再建の際、大幅な盛り土をして豊臣時代の石垣などは地下に封じ込めた。昭和時代になって天守台の地下に秀吉時代の石垣が確認されている。
大手門桝形の巨石は肥後熊本の大名・加藤忠広、桜門桝形の巨石は備前岡山の大名・池田忠雄が築いたものであり、両藩の築城技術の高さを示している。石垣の高さは南外堀の5番櫓東側付近の約33.5mが一番高く、次いで内堀東部の31~32mなどとなっている。
西の丸庭園の千貫櫓(重文)、乾櫓(重文)は、現在、大阪城内に残る建物の中で最も古いものである。

徳川の時代へ

徳川時代の大坂城主は歴代の徳川将軍であったが、3代将軍家光以後、幕末動乱期に14代家茂が入城するまで230年間、大坂城を訪れた将軍はいなかった。また2代将軍秀忠が再建した天守閣は、完成後39年目に落雷で焼失、昭和の復興まで266年間、天守閣のないままだった。
大手門は城の正門で、大坂城の大手門は高麗門形式の城門。門の防備を固めるため石塁で頑丈な桝形が築かれており、その石塁の上には大規模な多聞櫓が建っている。多聞櫓とは塁上に築く細長い長屋形式の櫓で、徳川幕府は大坂城再建の際、豊臣寄りの西国大名に対する備えを念頭にいれた城構えとしていた。
幕末の元治元年(1864)第一次長州征伐のため家茂が大坂城に入った。翌年の慶応元年(1865)再び家茂が長州征伐のため大坂城に入城したが、翌年、家茂は大坂城内で急死した。
慶応3年(1867)新将軍・慶喜は大政奉還と王政復古の大号令とともに大坂城に入ったが、翌年の鳥羽伏見の戦いで敗れ、慶喜は密かに大坂城を抜け出し幕府軍艦で江戸へ逃げ帰った。
その後、大坂城へ進撃してきた薩長軍の攻撃を前に本丸御殿台所から出火、本丸御殿や西の丸の建物、各所の櫓、番小屋など、城内の建物の大半を焼失してしまい、大坂夏の陣以来、再び惨めな姿になってしまった。
大阪城天守閣が所蔵している「幕末大坂城湿板写真原板」は、幕末の総修復で蘇った大坂城の姿を伝える貴重な写真で、おそらく15代将軍・慶喜が撮影させたものと見られている。同じく大阪城天守閣所蔵の絵入りロンドンニュースに掲載された「大坂城におけるパークスと徳川慶喜の会見」は、慶応3年(1867)に大坂城本丸御殿大広間で慶喜とイギリス公使ハリー・パークスの会見を描いたもので、この時、兵庫開港問題などの交渉が行われていた。

幕末大坂城湿板写真原板

明治政府以降

江戸時代の焔哨蔵や金蔵が残る大阪城内は、明治新政府の新しい兵制で陸軍の軍用地となり大阪鎮台が置かれた。西日本最大の陸軍の中枢となり、大阪城周辺も軍関係の施設で占められてしまった。
明治新政府は陸軍の養成を大阪で行うことにし、大阪は日本陸軍発祥の地となる。大阪鎮台は後に陸軍第四師団となり第二次世界大戦終了まで存続した。大阪城天守閣が所蔵の錦絵「坂府新名所の内・鎮台光景」には、大阪城内に置かれた陸軍の大阪鎮台の光景が描かれている。
 市民の寄付による昭和の天守閣復興に合わせ周辺も大阪城公園として整備され、大阪城は再び人々の親しまれる存在となった。しかし、第二次世界大戦の戦況が悪化するにつれて軍の規制が厳しくなり、昭和12年(1937)にはカメラの持ち込み禁止、同15年には8階展望台の封鎖、17年には天守閣全体が閉鎖された。

大阪城天守閣所蔵 錦絵「坂府新名所」より

終戦後、大阪城内の陸軍第四師団司令部は進駐軍に接収され、昭和23年に返還された後は市の施設となり、昭和35年(1960)大阪市立博物館としてオープンした。1、2階が古代から近世末までの大阪の歴史の常設展示場、3階が特別展場となっている。
紀州御殿と呼ばれた建物は、明治政府が和歌山城の二の丸御殿を解体した時、豪華な障壁画で飾られていた桃山様式の書院造りの白書院、黒書院、遠侍の3つの建物を破壊するのにしのびず、大阪城本丸へ移築した。陸軍第四師団の師団司令部として使われたり、昭和の天守閣復興後は大阪市の迎賓館となった。第二次世界大戦の空襲もまぬがれたが、戦後、大阪城に入った進駐軍の失火で昭和22年全焼した。
「この紀州御殿が残っておれば、天守閣周辺も城らしい雰囲気だろうに…」とその焼失を惜しむ声が聞かれる。
大阪城は国の特別史跡指定され、城内の古い建造物13棟が重要文化財に指定された。
大阪市の発展に伴って大阪城周辺の公園整備も進み、平成7年(1995)から同9年までの「平成の大改修」で美しい姿を取り戻した大阪城天守閣と合わせてスポーツ施設、音楽ホールなどが備わった日本でも有数の公園、文化施設になっている。

現在は、インバウンド観光客と修学旅行生のメッカとなってますね。
大阪市民はおろか一度訪ねた人はあまり行かない感じかなとも思います。観光客気分を味わうにはもってこいですが。名古屋城のような試みをするとまた違う観光資源に変貌しそうな気がします。

最後までお読み頂いた方、誠にありがとうございました。

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