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拝啓 あこ様

やどかりハウスを利用してくれた女性が書いてくれた文章がとても素晴らしく。2023年2月に創刊した”のきしたjournal”にも掲載しました。こちらにもアップします。

拝啓 あこ様


 母さんはまた、朝から癇癪を起こしてしまいましたね。
 なんだってあんなに頭に血が上ったのか、もう、よく思い出せないわ。
 多分あなたが、パンツの見えるツンツルテンのスカート履きたいと駄々をこねたとか、箸で遊んで穴だらけにした目玉焼きを食べ残したとか、きっとそんな、いつも通りの騒ぎね。
 あなたももう、すっかりそんな出来事など忘れた頃かしら。
 それともまだ、心の中で一人泣いているのかしら。
 母さんはあれからヤドカリさんにお願いして、いつものお部屋を取ってもらって、荷物をまとめて、お家を出て来ました。
 ヤドカリさんにお便りする朝はいつも、一刻を争う事のように思うのです。早くお家を出なければたまらないと思うのです。けれど、荷物をまとめて夕方を待っているうちに、母さんはいけない事をしている気がして来て、段々と気が重くなります。
 ここにはお布団が一式、白熱灯の灯りが一つ。ハンガーが二つ。小さな窓が一つ。あとは母さんの大きな鞄が二つあるきり。
 カーテンを閉め切って灯りを点けると、なんだか、お船の底か、寝台列車のキャビンに寝ているような心持ちになります。
 窓の外は段々と夕暮れて、太郎山の方の空が藍色に沈んでゆきます。
 やがて夜が来て、そしてまた明け始める頃。母さんはどこか、遠い遠い、知らない土地へ運ばれてゆかれているのではないかしらん。
 そんなふうに夢想します。
 皆は色々な事を言うでしょう。
 あなたを置いて母さんがここへ逃げてくるのは、頭を冷やして反省するためだとか。病気が落ち着くまで療養が必要なのだとか。
 けれどもここへ来る時、母さんの願いはただ、単純な一つの事です。
 遠く遠くへ逃げたい。
 それだけの事です。
あなたの前にもまた、どこまでもどこまでも逃げてゆける広い世界が広がっている事を、私は願ってやみません。
 母さんが帰るまで、父さんとおばあちゃんの言うことをよく聞いて。寒くないように

きちんと腹巻きをして寝てください。
母より

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