泣きながらホットミルクを作ったあの夜が報われた話

空咳の止まらない時期があった。

鬱がひどくて外出もままならなくて、一人ぼっちの夜更け。次の日にどうしても外出をしなければならなかったのでそろそろ寝なくてはいけなかったんだけれど、焦れば焦るほど寝られなかった。耳元で拍動がうるさい。今どのくらい経っただろうか、あぁでもスマホを見たら寝られないって言うし。どうして何もかもままならないんだろう。横になっているはずなのに体すら休まらない。どうやら私は生きるのが下手らしい。人間得手不得手があれど、こんなに致命的なことがあるだろうか。本当に本当に死にたかった。
布団から這いずりでた。無理だ。重たい足を引きずって、キッチンに立った。息を潜めて冷蔵庫を開ける。オレンジ色の光はパジャマに反射すると囚人みたいだ。牛乳のパックを取り出す間の、その僅かな時間がヒトではないと知らしめているようで苦しい。
涙が出てきた。耐熱のマグカップには、ずっと使っているそれには、近頃薬を飲むための水しか入れていない。どうして何もかも、こんなにもままならないんだろう。
情けなくて涙が出てきた。はちみつを牛乳に沈めて、電子レンジにかける。はちみつがゆっくりと垂れる時間も、猫舌の自分がすぐ飲めるように短く設定したはずの温め時間でさえも、忌まわしい。今この瞬間だって、世の中の人の大半は眠れているのに。
できるだけ音を立てないように、鼻をすすることすら我慢して、ややぬるいホットミルクを飲む。あぁ、こんなにも、ままならない。


それからしばらくして、私はいま人間に戻りつつある。そうして恋人と暮らしている。ホットミルクのことも、夜中に泣いたことも忘れていた。私の隣で眠る人は、大変に寝つきがいい。安心するのか知らないけれど、私も彼より早く眠りに落ちることが増えていた。彼の隣はあたたかい。
そんな彼が、昨夜横になってから咳をし始めた。聞いたことのある種類の咳。水を飲んでも止まらないそれ。彼は健康優良児だから、多分ものすごく戸惑っていた。心配で起き上がる私を布団に押し戻しながら「大丈夫、ありがとう、寝てて」と繰り返す。そんな事できるわけない。
「喉が乾燥してる感じある?牛乳温めて飲んだらいいかも」
ポソポソ伝えて、彼の横から布団を出る。
「俺やるから、寝てて?お願い」
私も彼も、明日は早い。でも、だからこそ。

お願い、心配させて。

目を見て伝えて、視線を合わせて抱きしめる。あの夜の私と同じだなんてことはない。わかっていた。でも、ふと思い出してそうしたくなった。
小さいワンルームで、キッチンの電気をつける。耐熱かどうかわからないコップ、か、湯呑み。二人暮らしの部屋には、まだレンジのための食器がない。小さい鍋に牛乳を入れた。はちみつがゆっくりと鍋に垂れ、溶けてゆく時間も、熱が回るのにそんなにかからないはずの温め時間も、惜しい。彼にははやく、あたたかに眠ってほしいから。

ホットミルクを飲み干して、彼が横になる。しばらくしてから寝息を立て始めるのを聞いて、私もようやく眠たくなった。

よかった、彼の咳が止まって。

よかった、咳の止まるホットミルクを知っていて。

あの夜中があってよかった、とは思わない。
でも、あの夜の私のための涙が、時間が、今夜の彼を眠らせることができたなら、それは無駄じゃないと思えた。

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