見出し画像

大阪相撲とは

2019年3月に、相撲博物館で展示されていた「大阪と相撲」。江戸時代の勧進相撲(寺社の本堂や山門などの造営・修復に要する費用を捻出するため開催した相撲)は江戸・京都・大阪の三都で開催されていた。京都に関しては調べる機会もないが、大阪相撲に関しては、その由来や存在の意義について、興味があった。
展示は4つのテーマによって構成。第1に「大阪相撲とは?」。大阪相撲は第12代横綱・陣幕久五郎(木村忠啓「ぼくせん」で悪役として登場)の尽力で、維新以降に発展したと聞く。「大阪角力協会」は昭和2年までが存在していた。最終的には経済的に立ち行かなくなり、東京と合併した。今の日本相撲協会の前身である「大日本相撲協会」が誕生したのである。
第2に「大阪相撲の横綱」。横綱土俵入りの1つの型とされる不知火型の始祖である第8代横綱とされた不知火諾右衛門は、大阪相撲で湊部屋出身者である。その後も大阪相撲最初の横綱である第21代横綱である若島權四郎、第23代横綱である大木戸森右エ門など、東京相撲からも横綱として認められた力士がいた。大阪相撲が東京相撲と合併した際に、連戦連敗であった大阪相撲力士たちは、両協会の実力格差を問われた。第29代横綱である宮城山福松の存在は、合併時に羅病したこともあって休場と不成績を繰り返し、大阪相撲の存在価値を問われるものであった。しかしその後に強豪横綱である常ノ花を破って優勝し、大阪相撲の実力を世に示した。
第3に「大相撲3月場所」。昭和23年から秋に実施されていたが、昭和28年より3月に開催されることが恒例となった。東京と合併してなくなった大阪相撲の、あとを埋めるイベントとして意義があった。俗に「荒れる春場所」と言われ、平幕優勝など東京の本場所とは違ったハプニングが起こると言われている。かつての人気力士である朝潮太郎が、5回の優勝中4回も大阪で優勝して「大阪太郎」と呼ばれたことは、微笑ましいエピソードである。現理事長である北勝海信芳も8回の優勝中4回優勝するほど春場所が得意だったそうである。
第4に「大阪出身の力士たち」。大関だった豪栄道豪太郎は寝屋川市出身、勢翔太は交野市出身。横綱では、大正年間の第26代横綱・大錦卯太郎や大関・前の山太郎を輩出している。ここの展示で興味を惹かれたのが「関西角力協会写真番付」である。これは一部力士たちが待遇改善を求めて、昭和7年に起こした「春秋園事件」の協会脱退者たちが構成していた組織である。首謀者たる天龍三郎や錦洋与三郎などが大関を務めている。トーナメント制で、年2場所開催だったそうだ。昔はプロレスみたいに分裂していたこともある角界の歴史を振り返るのに貴重な資料。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?