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マタイ伝第25章14〜30節「命を用いる」

11月12日の尾久キリスト教会における牧師・広瀬邦彦先生の説教。題材はマタイ伝第25章14〜30節、テーマは「命を用いる」。ある主人が使用人3人に私財を預けて、旅から帰った際に返金を受ける。Aは預かった5タラントを利殖して10タラントに、Bは2タラントを利殖して4タラントを献上。主人はAとBを激賞した。一方でCは1タラントを秘蔵して1タラントのまま返却。主人はCの怠慢を非難して、1タラントを取り上げて追放した。この時代の1タラントは、6,000日分の給金と言われ、現在の日本通貨なら6,000万円に相当する。主人が喜ぶ財産の使い方に最善を尽くしたかどうかという、イエス・キリストのした例え話である(個人的な感想として、Cの用心深さに対して主人のシビア過ぎる点が少し腑に落ちないところがある。これが使用人Dがいて、預かった財産を投資でスッていたら、より例え話の意図が明確になっていただろう)。


 聖路加国際大学の名誉院長だった日野原重明先生は、父親が牧師で、7歳の時に洗礼を受けた。1970年の「よど号ハイジャック事件」に58歳で遭遇した。4日間の監禁で、死を覚悟したそうだ。幸いにして韓国の空港で、人質が解放されて命拾いをした。この時に日野原重明先生は決心した。『これまでは自分の名誉のために生きてきた。これからは、誰かを救うために、誰かの役に立つために生きよう』と。それ以来、全国の小学校に「命の授業」のために回った。ここで日野原重明先生は、命の尊さ、命の意味を教えた。命は目に見えない。それは命が時間であるから。「君たちの持つ時間を、自分以外の何かに使うことを学んで欲しい」と。


 18世紀のユダヤのラビ(ユダヤ教の先生)であるルシュアは「神の前で自分のしたことの、何と乏しいことか、何と少ないことか」と、自らの死を嘆いた。弟子が「神の裁きが怖しいのですか?」と問うた。これに対してルシュアは「全能の神の前に出る前に『なぜあなたはモーゼやダヴィデでなかったのか?』とは神は言わない。『なぜあなたはルシュアではなかったのか?』と問われるだろう」と答えた。人生は不公平である。容姿、体格、能力、生まれた家、国籍、人種など、人によって様々である。しかしどのような境遇にあっても、最善を尽くせば、神の評価は収穫の多寡に関わらず、同じ評価なのである。


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