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マタイ伝第3章「キリストの洗礼と、私たちの洗礼」


1月14日の尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生の説教。題材はマタイ伝第3章「キリストの洗礼と、私たちの洗礼」。これは30歳になったイエスが、バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けるシーン。私たちの洗礼と、イエスの洗礼は意味が違った。鳩の登場は、ノアの方舟で洪水後に放たれた鳩を想起させる。つまり鳩は神の使いだった。イエスの洗礼後に聞こえた声は、まさに神さまの声だった。それはイエスが、父なる神の子供であったということである。


 「洗礼を受ける」という言葉は、どちらかと言えばマイナスのニュアンスで受け取られる。例えば高校野球の投手が、プロ野球入りしてメッタ打ちされると「プロの洗礼を受けた」と言われる。クリスチャンから言えば、洗礼は神の恵み。だからこのニュアンスの違いに違和感を感じていた。
 しかしながらイエスにとって、洗礼は苦難への道なりだったかもしれない。何故なら、それは十字架への道だったから。宗教改革の担い手だったマルチン・ルターの人生は戦いの連続だった。それゆえに体調の不調に悩まされることも多かった。不眠、眩暈、便秘、鬱症状。ルターの部屋の壁にはインクの染みがある。これは悪魔が、執筆中のルターを訪れた際に、ルターが悪魔にインクの壺を投げた跡と言われる。その際にルターは、額に手をやって「私は洗礼を受けている、私は洗礼を受けている」と呟いたそうだ。


 マタイ伝第4章では、イエスは悪魔から試される。しかし洗礼を受けた人は、神の子である。神は貴方を決して見捨てない。

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