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オードリー・タンの父方の祖母・ツァイ・ヤーバオの自伝

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オードリー・タンさんの父方の祖母・ツァイ・ヤーバオ(蔡雅寶)さんの自伝を、ボランティアで翻訳させていただくことになりました。翻訳が終わり次第、五月雨式にはなりますが、少しずつno… もっと読む
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記事一覧

第29章 長男の大学合格 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国57年、高校に入って二度目の夏休み、長男が台北から戻ってきました。彼はリビングに荷物…

第28章 長男の高校受験 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国56年の8月末、夫は長男を連れて台北の成功高校に入学手続きしに行ったついでに、近くに…

第27章 西施 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 次男(第4子)が小学校四年生の夏休みのある日、映画会社のスタッフと名乗る2〜3人が、眷…

第26章 子どもの麻疹 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国49年、金門島への出張を命じられた夫が出かけて行って三ヶ月も経たないうちに、私の妹(…

第25章 布団と餃子 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国48年から50年までの期間、銘德⼀村に新婚夫婦が増えて家が足りなくなったので、部隊は眷…

第24章 銘德一村へ | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国47年、端午節の数日後、夫と同郷の出身で、補給部隊で働く鄭さんの協力で、軍隊用のトラ…

第23章 夫がいない日々 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 3人目が生まれて11日目、夫は澎湖の部隊での仕事に戻って行きました。  私たち母子4人は、再び自分たちだけで暮らし始めました。  その後の20日の産後ケア「坐月子」期間中は、水汲み、買い物など、すべてをご近所の孫さんの妻さん、齊さんの妻さん、陳さんの妻さんたちに頼らせてもらいました。  ある時、子どもが食事の時間を忘れて外で遊んでいた時には、数人の妻さんたちが探しに行ってくれたこともありました。彼女たちには本当にお世話になりました。  童さんの妻さんは少し離れたとこ

第22章 次女を迎える | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国45年に僑愛新村へ引っ越してから、翌年に3人目の子どもを妊娠しました。  当時私は毎…

第21章 母子たちだけで暮らす僑愛新村 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 トラックが僑愛新村に到着し、新居まで送り届けてもらった私たちは、期待で胸がいっぱいでし…

『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』作者のツァイ・ヤーバオさんと、ご長男のタン・グア…

オードリー・タンさんの父方のお祖母様、ツァイ・ヤーバオさんの自伝『追尋 — 鹿港から眷村へ…

第20章 澎湖から僑愛新村へ | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国45年、政府は桃園・大溪エリアにある八德の松樹腳に台湾で二番目となる眷村を落成し、「…

第19章 長女の誕生 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 鹿港から澎湖に戻ってまもなく、私は自分が妊娠していることに気付きました。息子がもう3歳…

第18章 実家への里帰り | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 民国43年の年末のことです。春節の数日前、鹿港の父から小包が届きました。開けてみるとそれ…

第17章 離島・澎湖での三年間 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

 澎湖に到着し馬公港を出ると、部隊の車が私たちを迎えに来てくれました。夫と同じ隊の張さんも車に付いて来て、朝食を食べに連れて行ってもらった後、彼らが暮らす「東衛里」へと向かいました。  引っ越しの前、私たちは張さんに手紙を書き、住むところを探してもらえるようお願いしていました。おかげで到着するとそのまま家に入ることができました。  そこは三合院の端の部屋で、とても狭く、2坪半ほどしかありません。ベッドを置いたら残りのスペースは馬公の写真館で撮った家族3人の写真を飾る場所く