差別や疑似科学は自由なのか

つい最近、特殊な性嗜好に関する表現に関しての議論が活発だった。

そのトレンドはもう何もなかったかのように、世界は勢い良く回る。

リアリティーショーと化した現代において、派生的な議論はなかなかされないし、そういう議論自体が大衆の興味から大分離れたものになってしまったかのようだ。


下らない前置きはこの辺にして、本題に入る。

差別的な発言や疑似科学を基にした行動は、思想・信条または表現の自由としてカウントして良いのかという話だ。

この問いに対して、正解となるものは存在しえないのかもしれないが、少し考えていきたい。

「Black lives matter」という運動が、欧米諸国(特にアメリカ)で行われており、あまり問題にはならなかったが、新型コロナ感染拡大初期の欧州諸国における黄色人種差別というのも半年前まであった。

正直、あの一連の話は、あちらの話だ。
僕らの住む東洋諸国にはまた違った不平等が存在し、それらを是正しなければならない。

日本でも、特定の人種に対するヘイトスピーチが当然のように行われている。

他人に危害を加えない以上、ある程度の行動は容認(黙認)されていると考えると、「特定の人種を嫌う」という一種の思想・信条を保持し、表現する自由が保障されているということなのだろうか。


嫌い繋がりというのは少々文章のつなげ方として残念だが、
理系学生を何年間も続けてきたためか、私は疑似科学というものを嫌悪している。

意味が分からないからだ。

だが、疑似科学を信じている人たちは、僕らの言っていることがわからない。意味が分からない。

疑似科学を信じている人たちは、決して邪悪な心を以って空虚な教えを他人に勧めようとはしない。
ある程度の良心に従い、それらを信仰したり勧めたりするのだ。


ほんの1か月前くらいまで、疑似科学は滅ぼされなければならないと思っていた。

疑似科学を進める人たちを、どうしようもない人たちだと思っていた。

でも、僕らには理解しあえない形で彼らが救われているのであれば、他人に危害を与えない程度で疑似科学の良さを表現することは、決して間違ったことではないのかもしれないし、その権利は保障されるべきだのだろう。

そう感じた。金曜の夜。



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