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釣りタイトル注意:女性を"性的消費"する女性

世の女性は男が思うより"女の子"が好き、という話である。実感・実体験として見てきていると、文脈も何も分かっていない人からすると「女が少女を性的消費している」ように見えてしまう場面が現実にあるし、それが当たり前の光景になりつつある。

小学生以下の層をターゲットにした作品の場合、「男女だと男オタクやイケメンキャラ好きの女オタクから叩かれるから、どちらも傷つけない百合要素が好まれる」というのは慧眼かもしれない。

ざっと私見を言わせていただけば

といったところか。深堀していくと後述のように確かに女性側の意識が変わってきたのは確かなようだ。

事例:シスター・プリンセス

2004年位からネット上で「シスター・プリンセス」のファン層の4割は女性で、かなりの数の女子小学生・中学生だという話が出回っていた。当時、別に聞いた話では女子小中学生だけで4割、という話だったのだが、実際の数字はともかく女性ファン層が分厚いのは確かなようだ。

というのは遡ること2001年末から2002年にかけて、「アニメディア」誌の投稿企画の投稿を見ていると、なぜか女子小中学生っぽい投稿者が目立っていたのを見ていたこともあり、2004年の10月に出回ったあの話題が「答え合わせ」に見えたからである。

2004年のゲーム業界では「既存ユーザーは94%が男性、6%が女性」と言われていたのだが。

2021年の今から思えば、この6%の数も中身も今では違うし、それ以前に2004年の時点で状況は違っていなのではないかという肌感覚がある。

それから20年、こういう事を言われるようになったの感慨深い。

事例:女ラブライバー

前段で出てきた「シスター・プリンセス」の後釜のような位置づけのタイトル。

3coinsでコラボ商品も出たけれども、ラブライブを単なる"豚御用達コンテンツ"と認識していると、商品企画が理解できない。逆に言ってしまえば、データを元に企画すると、あのような商品ラインアップになる。

μ's→Aqoursへの代替わりで、既存の女性ファンを切り捨てたと言われたようだが、実際のところはあまり影響を受けたように思えない。ここのところは毎年キャラクターが入れ替わるプリキュアシリーズと同じやり方に思えるが、それはまた別の話。

事例:女性提督

業界筋で聞くところによると「艦これ」の登録ユーザーの男女比は6:4で女性が多いらしい。デパートの三越とのコラボ商品を見ても、女子ウケを想定した商品企画が目を引く。

顔見知りのコスプレ関係者も同じような傾向。

事例:ストリップ女子

そう言えば、上2つとは毛色が違うがストリップ劇場の客層が変わってきたという話題もある。「ストリップ 女子」のキーワードでググると、ここ数年の記事がポロポロ出てくる。風向きが変わってきたかのように。 

"目の付け所"の違いに着目すると興味深い。

21世紀に入っての変化

これらの結果を見ていくと、女性のセックスアピールが男ウケを意図しなくなってきている。

2000年代に入って女性の言う「モテ」の語法が変わり、「社会に出て活躍したい。人気者になりたい」(杉浦由美子「コスプレ女子の時代」KKベストセラーズ、2008年)という意味合いになってきた。

そして「エロい」が褒め言葉になった。倖田來未が目立ち始めた頃も「エロかわ」路線推しだったが、そんな感じの語法である。

その背景を杉浦由美子は前掲書で

 ところが男性はさほど女性に清純さを求めないし、「エロい」から「本命」になれないこともない。
 そうなると、女性が性的なアピールを強調して「エロい」雰囲気を出すことのマイナス面がなくなっている。

と解説する。従って↓のYANAMi氏のツイートの指摘は正しい。

そして、この話の延長上に「百合文化の盛り上がり」が来る。

杉浦由美子は10代女子向けの漫画でもレズビアンをテーマにしたものが人気である点を指摘した上で、こう述べる。

 なぜ、10代の女の子たちは女性の同性愛を楽しむのか。一番の大きな理由は女性の性的な魅力というのは、同性から見ても「可愛い」からだと思う。もう、「エロい」ことは男性に媚びることでもなんでもない。
 「モテ」のベクトルが男性に向いていないのと同じように、「エロい」も男性に向けたアピールではなくなっている。
 女の子の持つ性的な魅力をアピールすることは、ふしだらでもいやらしいことでもないのだ。
 「エロかわいい」という言葉が示すように「かわいい」の一つの種類として「エロい」はある。

これに加えて、そもそもマンガ・アニメを文化として享受してきた世代が下から積み上がってきて、二次元そのもに嫌悪感を持つ人間の割合が低下してきたという大きな流れもあった。

1990年代の伏線

実は1990年代には伏線があったのではないか、というのが私見で、これをTwitterで開陳したら、まさかの宮台真司先生にRTされた上に、フォローいただくという実にビビる展開を経た。今回は、その話を再録する。

きっかけは、こちらの記事だった。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1114

これを読んでインスパイアされた議論がこうである。

『オタクあるいはオタク文化が「被差別性」を少しずつ克服してきた』という歴史認識に異議あり。むしろ差別側が「堕ちてきた」。
最近、宮台真司他の「サブカルチャー神話解体」を読んだこともあって、多少のバイアスはあるとは思う。あの著書によれば1990年代前半に少女が性に乗り出したとか、1990年代後半からオタクの地位が上がったという理解が世間の誤解である。
宮台の議論に従えば『社会学者やフェミニストが唱える「性的消費」などと銘打たれたもっともらしい理論の遠景にも、古参オタクが唱える《社会的に望ましいオタクの姿》の延長線上にも、「宮崎勤」は立っている』という主張の前提が出鱈目。
『事情を知らない人は、性がものすごい盛り上がった時代だと思った。他方で、サブカル系がオタクに結びつけられて(オタクが人口に膾炙した連続幼女誘拐殺害事件=宮崎勤事件が1989年)、性愛界隈に乗り出せない臆病者たちのマスターベーション界隈』という誤解。
性愛という現実に実りがない、という認識が広まっている現実。そこを踏まえないことには、同じ悲劇を繰り返すことになるのではないか。
この対談に出てくる「自己関与化=視線の無関連化」というのは、昨今の"フェミニスト"が攻撃する対象を考える上で一つのキーになるのではないか。
先般炎上したアツギのタイツ、問題の広告の作られ方で語られる状況からすると「男の視線を参照しない」動きの結果として世に出てきている。今風に言えば「女性をエロい目で見ている女性」が前景に見えている。
宮台真司が「自己関与化」という概念を著書「サブカルチャー神話解体」で取り上げた1990年頃あたりから今に続く流れがあるように思える。しかし時代が下ると内実が変わっていく。
ボディコンの荒木久美子師匠とエロかわの倖田來未を対比させるとわかりやすい。一方は男性目線を集めるように見えていて、もう一方は女性支持が目立ったように。一見すると男性受けを狙っているようで、男性目線を媒介せずに女の子が女の子の視線だけを意識するゲーム(宮台真司)へ移行していく。
マンガ・アニメ・ゲーム系、いわゆる2次元界隈で見ていけば、セーラームーンで予兆が見えていた。同時にギャルゲ&エロゲの女性ユーザーの話に始まり、2000年代に入ってからは百合・GLジャンルが一つの区分として定着していったのは偶然ではないだろう。
2010年代のレイヤーブーム→自撮りブームに関しても荒木師匠→エロかわ倖田図式が当てはまる。女の子が性的魅力をアピールする相手も女の子、という構図が見て取れる。これは百合・GLジャンルが定着していく過程でも見られる。
尤も、製作者は無自覚なのだろうけれども、女児アニメ自体が自己関与化を促しているのではないか、という疑問はある。視聴者の女児にモテるよう、登場人物は「女の子にモテそうな女の子」となるよう、マーケットが要請する必然的な構造があるからだ。
これが将来的にどういう方向に向かっていくのかは、現時点では言いかねる。ただ現時点でも艦これ&アズレン方面を見ていると、完全に「女性をエロい目で見ている女性のセンス」全開の典型例に見える。当面の間は流れは変わらないのだろう。

この議論のインスパイア元が、こちらである。

イラストに付けられた作者のコメント。

「百合」を標榜するアニメというわけでもないのになぜ「男の子にモテそうな子」ではなく「女の子にモテそうな子」ばかり出るのかと10年来思っていたが、スーパーのお菓子売り場で目を輝かせてる女児を見て今更気付いた。視聴者の女児にモテるように作ってあるのな。

当時は、女が親父目線(mage gaze)を内在化させるようになってきたわけじゃないと解釈していたのだが、現実へのフィードバックを考えると、この解釈は間違っていた。

「女の子にモテそうな子」をロールモデルとして見てきているのだから、「女の子にモテそうな子」になる。たったそれだけのことだ。

1週間も経たずして次の分析を披露した。

ここ数日連投tweetを書いていて感じるのだが、森高千里の登場って丁度良いエポックメイキングだったのかもしれませんね。男に媚びているようで「この勘違い野郎!」というスタンス。全面的な肯定感の塊。この流れが女性が主導権を握る流れを作っていっている、って宮台真司っぽいな(笑)
そういうムードの中でセーラームーンがウケた。表向きには女が性に積極的に見えつつ、オタク差別が激化した時代であったのにも関わらず。尤も、マンガ・アニメ界隈と性風俗関係との接近のきっかけもセーラームーンとよく言われるけれども、それは上述の「表向き」のムードがそう見せているから。
「男の視線に対する自分の反応を、他の女が見たらどう思うか?」という点に女性は敏感とは言うけれども、その「男の視線」を気にしない記号が森高千里だったのかもしれない、と思うわけです。
で、セーラームーンに話を戻すと、原作マンガもアニメも想定ターゲットは(年齢は低めかもしれないけど)女性である、という事実は重要なわけです。そして1980年代までの魔法少女アニメと決定的に違うと思うのは、それなりに分厚い「大きなお姉さん」層がファンとして付いたということ。
そして「性愛に実りがない」という感覚が膾炙し始めた時代の中で、女同士の同性愛描写がある、というのが決定的だったのではないか。その意味では、マンガ・アニメの世界で「自己関与化=視線の無関連化」の構造を明確に持ち込んだセーラームーンの功績は大きい。

この事を考えると、下の記事で取り上げられたテーマは、フェミが女性の自己決定・自己表現を潰したとも言えるわけで、ここにも女同士の分断を見て取ってしまう。

まとめ

21世紀に入って「美少女」コンテンツを取り巻く環境は激変した。それは女性の変化によるところも大きい。結果的にある種の"環境浄化"が行われた。そして、今やジャンルやカテゴリーを問わず、女子ウケしないとコンテンツとしては成り立たない状況である。

締めくくりとして、2002年の幼児誌のページのツイートを引用しよう。

2002年の幼児誌のページだ、と言われてもにわかに信じてもらえなさそうなページ。「幼稚園」に「ギャラクシーエンジェル」の連載がある事実は以前から知っていたが、今で言えばプリキュアあたりと同じターゲットだったのだろう。
当時の言い方を借りると「アキバ系美少女モノ」と女児向けタイトルが地続きになりつつある、ということだった。勿論、2002年以前までの歴史的な経緯を振り返ると語弊があるのだが、何も事情を知らない人間向けには、この説明で現状が説明できてしまっていた。
そして2010年代は、女児向け・少女アニメの皮を被った「アキバ系美少女モノ」を見て育った世代が、本格的に「美少女モノ」のファンやユーザーになっていくという質的変化があり、その裏でギャルゲ・エロゲの衰退が進むという転換が起きた。
その流れの一つが二次元アイドルブームであったり、艦これ・アズレン等の美少女擬人化ゲームの登録ユーザーの男女比に結果として現れているのではないか。これは表現規制問題に対する一つのカウンター、下からの突き上げ材料だろう。現実の問題として、そういうマーケットが存在しているのだから。

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