手かざし宗教二世の半生 宗教の闇① 編


宗教二世で何が1番苦しいか、と問われたら
〝宗教の教えに支配されること″
…と私なら答えるだろう。

教えは宗教によって内容はさまざまだが、
私の属していた手かざし宗教の教えによる
二世の苦しみについて語っていきたい。

手かざし宗教にはまず大前提として
10項目の教えがある。
今回はその項目にそって解説していく。

  1. 真光業(手かざし)盛んなる者

    いつでもどこでも手をかざし、
    沢山の人や空間を清めなさい。
    道場で手かざしご奉仕に努めなさい。

    ということなのだが、
    手かざしをするには、オミタマという御守りを常に首にかけなければならない。
    このオミタマを常に首にかけていると、良くも悪くも神様に見られているような感覚になる。

    ほとんどの信者はオミタマをかけて神様に守られていると感じて日々過ごしているのだが、
    そう感じるのは皆心臓の上にオミタマがくるように安全ピンで固定している点が大きいと思う。

    海外の手かざし信者の体験談で、銃で胸を撃たれたがオミタマに当たり命を救われた。
    …という話があり、手かざし宗教雑誌にも掲載されて話題になった。

    命より大切に扱っているオミタマは、
    私達を災いから守ってくれる!

    という固定概念がより強化されたように思う。

    ただこのオミタマ、人によっては苦痛もかんじる。
    心臓の上にオミタマが常にあることで、神様に命を握れているような不自由な感覚になるのだ。

    オミタマをつけているのに手をかざせていないと、豚に真珠で神様に失礼になりますよ、と
    幹部が講演会で話す場面を目にすることがあった。

    オミタマつけてるなら手をかざしていないと我々は豚、というようにもとれる言葉だが、
    ようは手かざしをしないでいるのは勿体無い!と言いたいのだろう。

    救われたくてオミタマをつけている信者がほとんどなのに、
    まずは手をかざして他人を救ってからアナタ自身も救われますよ、というのだ。

    救われていない者が本当に他人を救えるのか?
    救われた経験のある信者なら、その経験を活かして他人を救うことも可能だろう。

    だが、救われた経験のない者は?
    ……無理とは断言はできないが、中々難しい問題である。

    手かざし宗教二世はその経験がない者が多いので、いまいち手かざしの重要性がわからないし
    家庭や道場で、親や周りの信者が手をかざし
    いかにもこれが正しいという姿勢でいるのだから
    それを真似しているのが精一杯だ。

    がんばって手をかざしている二世のほとんどは、
    親や周りの信者の期待に応えようとしている。
    手をかざせば喜ぶからだ。

    個人的な意見だが、手かざしは自己満足の世界だと感じているので
    手をかざしてor手をかざされて、心が満足する
    (時間をかけて手をかざした達成感など)
    という事が信者を繋ぎ止める要因に他ない…と思うのだ。

  2. 真吼え真配り盛んなる者

    手かざし宗教や神様の教えを他者に伝えること、
    手かざし宗教の発行している書籍やチラシ等
    配ることを努めなさい。

    という事なのだが、
    知人友人に「おまじない(手かざし)ができて〜…」と話し始めて
    相手の様子をうかがいながら、少しずつ手かざし宗教について伝えるのが
    信者の中ではポピュラーだと思う。

    ただ、これは本当に勇気がいる行為で
    多宗教や無宗教が当たり前かつ、
    オウム等の事件を起こしたカルト宗教への不信感が強い日本では
    宗教をやっているだけでヤバイ奴と思われてしまっても可笑しくはない。

    私の場合、両親共に手かざし宗教信者で
    産まれてこのかた神様が絶対的な生活をしていたが
    他の人にとって神様は絶対ではない、という認識はあった。

    その認識があった為、
    この〝真吼え真配り盛んなる者″という項目を
    達成するまで、他の信者より非常に遅れをとってしまった。

    私は本当に遅れているな…と同世代の信者達を眺めては
    皆はきっと見えない天使の羽根が生えていて、
    私には虫の羽根でも生えているくらいに駄目な存在だと
    本気で思うことも過去にあった。

    勇気を出して中学生の時に友人を宗教施設に連れて行ったことがあるが、
    入り口でものすごい勢いで断られた経験があり
    やはり宗教の押し付けはよくないと学んだ。
    (その子はこの後もいい友人でいてくれた。今でも優しさに感謝している)

    あとは社会人になってから、
    学生時代からの親友を心底心配して宗教施設に連れていったことがある。
    当時親友は死にそうな位辛そうにしていたので、
    何か助けにならないかと親友に手をかざし、どうかお救いくださいと本気で神様に祈ったりしていた。

    そう、
    〝助かってほしいせめて楽になってくれたら…″
    という気持ちだけだった。

    これが本当に重要なことだと伝えておきたい。

    手かざし宗教において、ということを踏まえてだが、
    ほとんどの信者が心底善意で手かざしをしている、と言い切れる。

    一度でも手をかざされた事のある人に言いたいのは
    相手はあなたを騙そうとしているのではなく、
    ただの善意でやっただけにすぎない。
    …ということだ。
    それは手かざしによる救いを純粋に信じているから、というだけだ。

    もし出会ったらうまく流してくれて構わないし、いやなら嫌だと言えば
    相手も手をかざしたり、無理に布教してくることも少ないだろう。

    私は手かざし宗教二世であるが故の苦しみも味わってきたが、
    末端の信者達はほんとうに良い人や優しい人が多かった。

    手をかざそうが、そうでなかろうが、
    その人自身との信頼関係は失ってほしくはない。

    という個人的な気持ちから、そうお伝えしておきたい。
    (手かざし宗教を援護してはいないので、あしからず)


    少し長くなってしまったので、今回はここまでにしておく。

    次回からも引き続き、10項目にそって語っていきたい。

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