見出し画像

黄金の意味

夏休み白山登山のはずが、いろいろありまして(というか大雨で)なぜかなぜか金沢に。
ふらりと初めて21世紀美術館に。
そして「naked×千利休」をなぜか鑑賞するという、前日には全く予想もしていなかったところへと運ばれました。

その展示の中で、小学生が作った、ゴミを用いた秀吉の黄金の茶室というものがあり、
それについて少し書きたいと思います。

というのも、先月の棘トリニティアロマセラピー講座では、錬金術を入り口に、精油とは何者なのかを探るというテーマでお届けをして、
そこでは錬金術の目的である「金」とはどういう存在なのかということもみていったからです。

古代において、金は万物の源なる太陽の光であり、
金、金色のものは、地上における現れである。
すなわち万物の源の力を同様に持っている。と。

さてこのサステナブルな金の茶室。

小さな黄金の空間に座ってみて何を思うのかなと思ったら、
実際にはなんとも分からない気持ちになりました。

金色に囲まれた空間は、うわーっと、普段経験し得ないという何か高揚する感覚があり、
でも段ボールに貼られたスナック菓子の袋などであるということも分かっていて、
自然界の金(神様が自ら生み出した金)ではなく、今や簡単に作り出せる印刷の金。
でもそれもまぁ、全てが神様の生み出した金であるとも言えると言えば言えるのだけど。

色は波長であることを考えると、本物の金であろうと印刷の金であろうと、色から受けるものは同じなはずなのだけど、
でも…

そもそもゴミというのもよく分からないもので、
さっきまで魅力的なパッケージであったはずのものが、使用後には直ちにいらないものになり、目の前から排除したいとさえ思う。
物自体は数分経っただけで何も変わらないというのに。

そんなわけで、
クラクラするほどの黄金の小部屋だけれど、
ゴミでできているということ、
子どもたちが楽しみながら作ったということ、
いろんな情報が合わさって、なんとも混乱した気分に。

すごくアートだわー。と思いました。

パネルには、
「豊臣秀吉の金の茶室は、侘び寂びとは程遠いように思われるけれど、千利休が知らなかったとも思えないし、黄金を絢爛豪華ということではない、命や根源の輝きとしての黄金と捉えていたのかもしれない」細部は忘れましたがこんなようなことが書いてあり、
この茶の湯の宇宙で、古代から錬金術へとつながる金の捉え方があったのかも、
と、講座とのシンクロにドキドキしました。

千利休はなぜ晩年排除され、自害したのかなと夫と話していて、
夫はこの金の茶室についても、
実際に金の茶室を作って身を置いてみたら、我が身が分かるよということで見守っていたのではと。
黄金というありえない空間に身を置いた時、きっと一種のトランス状態になり、
その時に心の弱さなどが浮き彫りになる、それもまた、ということなのかしら。
(茶道については全然理解していませんのでただの素人二人のおしゃべりですが)

旅先で読んでいた本に、
哲学者シェリングのことがあり、
そこには

感覚のはたらきが人間の意識に対して、否定的に、制限するような刺激となってはたらきかけてくることは、人間の知性を育てる前提なのです


大自然あるいは物質的な世界と、人間にとっての感覚的世界とは、自我意識を目覚めさせる…
       

シュタイナー哲学入門 高橋巌

とあり、

つまりは現実世界で何かしらの感覚を受けることは、全て自分(という神と一体化した深層心理の部分)を意識するための装置であるというようなこと。

*これって「起こること全て意味がある」というような言い方でよく言い合うことではあるけれど、1700年代にしっかりとした言葉で語られ、ドイツロマン派というムーブメントになっていたんだと今知り、ははー!(こうべを垂れる)という気持ちです。


千利休に話は戻って、

師として(?)
感覚をくぐり抜ける必要があるから、
「黄金、やってみなさい」と思ったのかしら。

なんてなんて。

兎にも角にも、
本物の金の茶室に実際に入ってみないと分からないですね。

本物の金なのか、スナック菓子の袋なのか、という価値観のフィルターも含めて、
金の魔力がどう働くのか。
(展示だとここだけ写真撮りたい人がたくさん並んでいて、金の魔力が…という気もしましたが)

取り止めのない文章ですが、特に第三回の講座を受けてくださった方に向けて、補足の小咄でした。

第四回はまたこの流れから、星とアロマのテーマでお送りしますね。
どうぞお楽しみに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?