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WINSについて語るときに僕の語ること〜メンズメイクとデートの支払いについて〜

 WINS(場外馬券売り場)に向かうとき、僕は可能な限り見た目をととのえるようにしている。

 顔を洗い、髭をそる。化粧水、美容液、乳液に日焼け止めを塗る(最近はメラノccにお世話になっている)。BBクリーム、コンシーラー、パウダーファンデーションと肌を整え、アイメイクへ、最後にリップをつける。果たしてそんな順番であっているのか。メイクの正解は未だ見えない。
 そもそも僕ごときのお遊びを、メイクと呼んでいいのか。全くもって自信はない。使っているのは、韓国系のプチプラとKATE。ほとんどを近くのドラストかネットショップで買う。ドラストでははじめ、店員さんの視線が気になった。今は視線を気にしないように努めているが、一番近くのドラストでは買わないようにしている。こんな情報を載せてなんになるのだろう。

 メイクをする、そのことへの違和感はなくなった。始めたのは就職活動のタイミングだった。もともと眉が薄く、書き足そうと思った。当時はそれだけだったので数秒で終わった。それからBBクリームを使って肌をきれいにすることを覚えた。はじめの頃は手で塗っており、ムラが多かった。直接顔を触っていいことなどあるはずがないのに。
 肌キレイですねと言われることが増えた。全くそんなことはない。男性から言われる際には、まあ気づくことはないんだろうなと思う。女性から言われる際は気づいてますよと伝えたいのだろうか、そんなふうに受け取ってしまう。
 どこぞのインフルエンサーたちのように、堂々としたらいいのかもしれない。しかしこっちは別に、やっているアピールがしたいわけではない。目的はほどんどが自分のテンションを上げるためで、個人的行為なのだ。

 もろもろに30分程度時間をかける。自分が少しずつマシな見た目になっていくことに、少し気持ちよさを覚える。という説明では、メイクをしない男連中から全く共感は得られない。

 そんなことしてなんになるん?そう言われることも往々にしてある。では彼らはどうして服装や髪型に気を使いながら、顔には使わないのだろうか。服にかけるコストの一割でも使って、買ってみたらわかるんちゃう?そう返したりもする。質問を質問で返すことはポリシーに反するがこの場合は例外だ。
 変装とは今ある状態から自分を開放する日常的な冒険だと、競馬人であり詩人の寺山修司が書いていた。僕はメイクをしているのではなく、この行為を通して自分を開放しているのだ。そんな返答をして、誰に伝わるのだろうか。
 また、メイクにはたぶん相手への思いやりがある。少しでもキレイな自分でありたい気持ちは、自分と相手の両方に向いている。自分がきれいであることで、相手に誇らしく感じてもらえる。少なくとも、一緒にいる相手に恥ずかしい思いをさせないためにも、人はメイクをするのだろう。その場にいる人のことを考えてしているんだよ、その返答は気障すぎる。

 それにしてもどうして、多くの男性がやらないメイクを女性は求められたり、メイクが上手な女性を男性はもてはやすのだろうか。あなたの眼にできる可愛い顔には、それ相応のコストがかかっている。そのことに対して無自覚な男性が多いことにも疑問を持つ。
 メイクをするようになって、女性と過ごす際の支払いはできるだけ出したいと思うようになった。女性は準備にコストをかけているのだから、支払いは男性がするべきだという主張が正当であるように感じられる。どうしても出したいという場合には出してもらうけど。

 メイクなんかしなくてもいいから割り勘にしようぜ。そう考える男性もいるかもしれない。だがもしスッピンで行った場合、その人は少なくとも多少はガッカリし、また街行く他の女の子に目を奪われるのではないだろうか。どうしてわざわざ時間を使って、そんな惨めな目にあわなければならないのか。

 (この仮定はあくまでも、サシで出かける前提であって、サシで出かけられる相手からそんな目に合わないといけないのだという意味である。この点については、何となく補足しないと伝わらないような気がした。)

 そうでなくとも多くの男性は、可愛い子に目がないのに。その主張をのんでスッピンで楽しめるのは、相当に恵まれた逸材か、あるいは諦めの境地にたどり着いた者だけだろう。どうして割り勘にして、傷つかなければならないのだろうか。だったら、女性は男性のために可愛くなるためのコストを払い、男性は女性の分もその場のコストを負担する。それで釣り合いがとれるのではないだろうか。
 一方でメイクは手品の種なのかもしれない。種も仕掛けもない、そう男性側が無自覚でいた方がメリットは大きい可能性も十分に有り得る。

 服装はデートに着ていくようなものを選ぶ。できるだけキレイ目なもの、あるいは流行りの若者を纏う。もちろん靴やら小物もしかり。また、香水は必ずつける。私はあくまでもWINSに来てやっているのだ、私はここでは異質な人間なのだと伝えられるように。この感覚はニーチェの超人に近いのかもしれない。ちゃんと読んではないけど。

 この一連の準備の時間に、レースの展開や買い目を考えている。もしくはYouTubeの競馬予想チャンネルを流している。この情報収集では穴馬を探す。
 穴狙いが好きだ。おおよその予想通りに進むのが競馬ならば、誰もこんなには熱中しない。何があるか分からない中で、信じて託した馬が奇跡をくれる。それこそが競馬の醍醐味ではないか。

 持ち物は主にスマホと小銭入れとデイリースポーツ。それと書籍、そしてイヤホン。財布は極力、持たないようにしている。小銭入れにその日使う分の金額を入れて家を出る。この行為に、自分の生真面目さが現れている。財布に入っている全財産を使い切るくらい破壊的な人間であれば、僕の人生はどうなっていただろうか。そんなことをふと考えては、自分には到底無理だと思う。
 スマホがあれば、新聞などというオールドメディアは必要ない。あるいはそうかも知れない。一方でスマホは鬱陶しい。この2頭の前走成績を比較したい。そのように欲しい情報が2つ以上あるとき、いちいちページを遷移しなくてはならないのは不便だ。
新聞であれば最新のオッズは分からないが、複数の情報を並べてみるのに優れている。回線の影響で繋がりにくい、などがないのもありがたい。競馬場に行く際にはうちわやシートの代わりにもなるし。

 最寄りのWINSは大阪梅田にある。実際にデートや後ろに予定がある場合は電車で行くが、そうでなければ自転車を移動手段にしている。往復の運賃に払うくらいなら、馬券を買いたい。正確に時間を測っていないが、電車で25分、自転車では40分くらいかかる。

 大抵の場合移動中の電車では読書をし、自転車移動なら競馬のことを考えている。競馬と文学は双生児のようだと高橋源一郎が書いていた。競馬は、ホメロスの「イリアス」に既に記載されている程度には長い歴史を持つ。また、イギリスからフランスに渡って近代化される過程も文学に酷似していると。競馬とは文化であり、僕が今から向かう場所はカルチャーセンターなのだ。
 人が人ならざるものと呼吸を合わせる。とても素敵なことだ。小さい頃に馬に乗せてもらったことがある。場所は確かハワイ。約2時間の乗馬体験。広い大地を、家族四人とトレーナーの方でそれぞれの馬に乗って散歩した。はじめは緊張が馬に伝わっていると言われた。徐々に馬に乗っていること自体に体が馴染んできた。すると馬もリラックスし、スムーズに前を行く他の馬に続いてくれる。心地よいゆらぎに、僕は途中で数分眠ってしまった。
 自転車ではなく、馬で移動できればいいのに。そんなことを考えいるとWINSに着く。

 おじさまたちから叫びが上がる。自信を持って消したはずの馬が来るんだから、こんなに愉快なことはない。

 この馬はパドックを見ても、成績を見ても、騎手を見ても来ない。そう断言し、消しとした馬に悠々と逃げられる。その絶望は希望になる。あるいは次に当たるのは僕かもしれないと。

 あるいは複勝にしておけば、と思う。その一方で、複勝が当たったときにはどうせあたるのなら馬単、もしくは三連単にしておけば。残念ながらそれが競馬なのだ。

 誰一人として負けるつもりはない。しかしながら、必ず殆どが負けるのである。それではどうして我々は、合理的でない挑戦をするのか。中毒、そうかも知れない。しかし、そんな簡単な言葉で片付けられたくはない。

「人生は競馬のメタファー」これも寺山修司の言葉だ。物事はうまく行かない。予想は当たらないし、信じるものも報われない。たったそれだけの真実を痛いほど知らされること、それは何ものにも代えがたい対価なんだ。だから競馬はやめられない。


補足

WINSと家と競馬場の違いをについて、書こうと考えていたが疲れたのでここでやめる。そのための「WINSについて〜」のタイトルだったのに、内容が大きくズレてしまった。仕方が無いないから、実際に書いてしまったことについて副題に入れよう。そして、そのうち追記しよう。

ps.京都大賞典はボッケリーニからいこうと思う。

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