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【甲子園出場!】 向上心の塊・中谷仁監督(智辯和歌山高)--甲子園制覇してもさらなる高みへ

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2022年3月31日発売の『別冊野球太郎2022春』に掲載されたインタビュー(取材を行ったのも3月)です。

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選手としても監督としても甲子園制覇という偉業を達成した中谷仁監督。ただ勝つだけでなく、指導視点の的確さで唸る場面も多い。日々の練習において新たな取り組みをした、という報道も耳にする。日本一を成し遂げた今、指導者としての考え、現在地をうかがった。
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第二の人生でもう一度勝負を

 今から約8年前となる2014年秋。プロ野球界を離れ、セカンドキャリア1年目を送っていた35歳の中谷仁に話を聞く機会があった。12 年度シーズンを最後に15年間に及んだ現役生活にピリオドを打ち、13年は巨人のブルペン捕手としてリーグ連覇に貢献。シーズン終了後、自らの意思で退団を申し出た。決断を下した理由を当時、中谷は次のように語っていた。
「目の衰えを実感していたんです。今はまだいいけど、40歳を超えてプロのボールを受ける自信はなかった。それならば、今の段階で第二の人生を一から築くのもいいんじゃないかと。自分はプロ野球界では失敗した部類の人間。第二の人生でもう一度勝負をかけたい、という気持ちが強く湧き上がってきたんです」
 新たな職場は野球塾「上達屋」。創設者であり、代表を務める手塚一志氏とは阪神、楽天時代にパフォーマンスコーディネーターと選手という立場でチームメートだった。手塚氏は現役時代から「引退後、よかったら一緒に仕事をしないか?」と声をかけてくれる存在だった。「ずっと声をかけてくれたことが嬉しかった。必要とされている喜びを感じました。巨人退団後、『詳しく話を聞かせてください』と手塚さんに電話を入れ、3年契約でお世話になる運びになりました」。正式スタッフとなったのは2014年1月。3月には「学生野球資格回復研修会」において修了証を取得し、元プロでありながら、高校、大学生にも指導できるようになった。
「『何曜日に野球教室をやりますから来てください』という呼びかけ方式ではなく、完全予約制のマンツーマンによるプライベートレッスン方式なんです。遠方から来られる方もおられますし、年齢層も4歳から60歳代までと幅広いんですよ」
 中谷は上達屋のレッスンの特徴を「教えない、指導しない。多種にわたる独自のドリルを用いつつ、レッスン受講者が本来持っている動きを引き出すことでパフォーマンスの向上を図っていくやり方です」と説明してくれた。
「骨盤の使い方を中心とした、体の操り方、身のこなしをサポートするという発想です。『バットはこう構えて、こう振って!』というスタイルではないので、『指導しない』という表現の方が合っていると思う。教えるのではなく、あくまでもサポート。そのため上達屋では『コーチ』ではなく、『パフォーマンスコーディネーター』と称しています。これからの指導者は自分の経験を基にした感覚、イメージ頼りの指導ではなく、体の仕組みを把握した上で、きちんと言葉で説明できなければいけないと思う。そういう意味では毎日がものすごくいい勉強になっています」

定まっていなかったビジョン

 15年春からは柔道整復師・鍼灸師の国家資格取得を目指し、専門学校にも通った。その動機を中谷は次のように語った。
「上達屋には50代、60代の草野球プレーヤーなども来るので、『レッスンを通じてケガをさせてしまったらどうしよう』という不安があったんです。医療系の勉強をし、国家資格を持てば、自分の言葉に対する説得力が増すのではないか。自分の指導により責任を持てるんじゃないか。そう思ったんです」
 上達屋との3年契約が終了した後のビジョンをたずねると「それが……まだ自分でもわからないんです。白紙です。日々、模索している状況です」という答えが返ってきた。
「アマチュアチームの指導者になりたいと思うかもしれないし、国家資格を取得し、整骨院を開業して母校・智辯和歌山高校野球部のサポートをできたら、なんてことも考えたりします。プロ時代に仲のよかった仲間とタッグを組んで元プロ選手のセカンドキャリアをサポートできるビジネスをやってみたいと考える時もありますし、まったく野球とは関係ない方向へ自分のやりたいことが広がっていく可能性だってある。とにかく今は、上達屋のスタッフとして修業中の身。学生時代にアルバイトをした経験すらなかったので、貴重な社会勉強もさせてもらっています。ここで3年間頑張りながら、先のビジョンを明確にしていきたい」
 先のビジョンが定まっていないことは不安要素ではなく、むしろ楽しみな要素。中谷の誠実そうな笑顔にはそう書いてあるように見えた。指導者としての素養に溢れた人物だと思った。
(固定観念にとらわれない、常によりいいものを模索し続ける、選手ファーストのいい指導者になりそうだなぁ。教え子一人一人に合わせた、オーダーメイドのような指導ができそう。個人的にはアマチュアの指導者、それも高校野球の監督としての中谷仁が見てみたいな)
 そんなことを考えながら帰途についたことをよく覚えている。
 17年春、中谷は母校・智辯和歌山高校野球部にコーチ、部長として戻ってきた。翌18年夏の甲子園大会後、勇退した恩師・髙嶋仁氏の後を継ぎ、監督に就任。19年春には指揮官として初の甲子園出場。昨夏は就任3年目で全国制覇を成し遂げた。
 優勝後の会見で指導方針を尋ねられると、中谷は「まだ監督になって3年。指導方針なんて考えられない。子どもらと一緒に何がいいのかを模索しているところなので……」と答え、「自分の色」など存在しないことを終始、強調した。謙そんともとれたし、本音ともとれた。

追求心に全力で応えるために

 今年の3月、監督・中谷仁に会うべく、智辯和歌山高校を訪ねた。グラウンドのバックネット裏で出迎えてくれた指揮官の柔和な笑顔は、野球塾で指導していた8年前となんら変わっていなかった。
「8年前に初めてお会いした時は先のビジョンなんてなにも定まっていなかったんですよねぇ。自分はどうなっていくんだろうと思いながら、自分の指導を求めて野球塾にやってくる生徒たちと全力で向き合い続けた日々でしたね」
 取材開始早々、上達屋で勤務していた頃の話になった。中谷は少し遠い目をしながら、8年前の続きを語ってくれた。
「上達屋との3年契約が残り数カ月となった16年秋頃から臨時コーチとして智辯和歌山に足を運ぶようになったのですが、学校の理事長と髙嶋仁監督から『17年4月から正式に帰ってこい』と言われたんです。思ってもいなかった展開でしたが、母校に戻ってくることを決めました」
 柔道整復師の資格取得のために通っていた大阪の専門学校での受講カリキュラムは順調に進み、国家試験対策を重点的に行う3年生への進級が確定していたが、学校をやめる選択を下した。
「2年半しか時間がない高校球児と全力で向き合うことを考えたら、学校に通う時間は割けないと思いました」
 中谷は上達屋での3年間を通じ「この世で野球がうまくなりたいと願っている人が自分の想像よりもはるかに多かったことに気づけた」と話す。
「お金という対価を払ってでも野球がうまくなりたい、上達につながる技術を取得したいと思ってる人がとてつもなく多いことを知りました。50歳、60歳になっても野球がもっとうまくなりたい一心で、時間とお金をかけて遠方からでもやってくる。そこにあるのは『大好きな野球を追求したい』という純粋な思いなんです。ひしひしと伝わってくる追求心に全力で応えるためにも『こちらも強い追求心とともにもっと勉強しなければならない! 常にアンテナを張り、よりいいものを模索していかなければいけない! 現状に満足している暇などない!』と思わされました。あの日々なくして今の自分はない。あまりに貴重な3年間でした」

僕の指導だけでは限界がある

 高校野球の指導者として、いざ母校を率いてみると、野球塾で培った指導スキルでは対処できない世界があることに気づかされた。
「プレッシャーの存在です。野球塾にやってくるお客様にプレッシャーがかかる場面はないといっていいのですが、トーナメント勝負の高校野球はプレッシャーがかかる場面がものすごく多く、プレッシャーのかからない状況下ではできるパフォーマンスが、できなくなったりする。特にウチは和歌山県内では『勝って当たり前』と周囲に見られるプレッシャーが重くのしかかる。選手たちは口にこそ出さないけど、ものすごいプレッシャーと戦いながら和歌山大会に入っていく。そんな選手たちの心を勇気づけられる術がなかなか見つけられなかったのですが、イチローさんが救ってくれました」
 20年12月、イチロー氏(マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)が智辯和歌山のグラウンドに3日間足を運び、指導を行ったことは大きな話題を呼んだ。「プレッシャーとの向き合い方」を何人もの選手に質問されたイチロー氏は「状況によって生まれるプレッシャーはプレッシャーを感じた上で結果を残すしかないんです」と智辯和歌山ナインに伝えた。
「あの言葉は本当に大きかったんです。選手たちはものすごい勇気をもらえたと思う。イチローさんがあの言葉を伝えてくれたことで、上のレベルにいけばいくほどプレッシャーを感じながら野球をやっている人は増えていくイメージを選手たちは持つことができた。智辯和歌山で野球をすることで生じるプレッシャーを誇りに思い、真っ向から立ち向かう覚悟が定まったんです。プレッシャーをチーム全員で受け止め、みんなで励まし合いながら、乗り越えようとする思いがチーム全体に宿った。その一体感が昨年の全国制覇に寄与した部分は間違いなくあったと思います」
 昨年からは、足が速くなること謳う「走りの学校」のインストラクターによる指導を月1回ペースで受講。チーム全体の走力は大幅に向上したという。
「やはり僕の指導だけでは限界があるので。僕があまりよく知らない分野はその分野に詳しいエキスパートに指導してもらったほうが間違いなく子どもたちのためになる。これからも僕以外の、いろんな人の話や意見を選手たちに聞かせ、刺激を与え、考えさせ、取捨選択させたいと思っています」

元プロ指導者の強みとは

 プロの世界では野村克也、星野仙一、原辰徳といったレジェンド監督の下でプレーした中谷。日々のさまざまな場面で名将たちの言葉や教えが記憶に甦る。
「『こういうことがあった時に原さんはこんな言い方をしていたな』『こういう時に野村さんはこういう話をしてくれたな』と言ったように当時と同じ状況が起きた際に記憶に甦るパターンが多いです。高校生の教え子たちにも伝えるべきと判断した時には、恩師たちの言葉を引用させてもらうこともあります。そんな時は知らずのうちに野村さんや星野さん、原さんたちを真似たような口調になっている気がします」
 元プロ指導者であることの強みを実感することはあるのだろうか。
「特にはないです。しいて言うならば、プロ野球選手を目指している子たちに対する説得力が生まれることでしょうか。自分が目撃した一流選手たちの言動や考え方、練習方法などを自分だけの思い出にすることなく、伝えることができる。自分がプロで一流になれなかった要因を失敗談とともに伝えることで説得力のある反面教師にもなれる。ディズニーランドで効率よく回りたい人にアドバイスを授けるのに、ディズニーランドに行ったことのない人とディズニーランドに15年通った人なら後者の方が的確なアドバイスができるという話で。でも、そのくらいだと思いますよ、元プロの強みなんて」
 高卒でプロの世界に飛び込んだ中谷チルドレンである東妻純平(DeNA)、黒川史陽(楽天)、小林樹斗(広島)、細川凌平(日本ハム)にインタビューを敢行した際、
「中谷監督の指導はすごい。監督に出会っていなければ今の自分はないです」
「迷っている時などに授けてくださるアドバイスがことごとく進化につながるんです」
「すべての話に『なるほど』と思えるし、言葉に説得力がある」
「そんなやり方、考え方があるのか、と思わされることがたくさんありました」
 といった言葉を全員から聞くことができた。
「ほんとですか? あいつら僕にはそんなこと一切言わへんのに……」
 半信半疑のポーズを作ってはいたが、指揮官の表情は喜びに満ちていた。中谷は続けた。
「母校の野球部に携わることができている喜び、幸せを日々、ひしひしと感じています。キラキラした目で『うまくなりたい! 教えてください!』と食らいついてくる追求心たっぷりの選手たちは弟や息子のような感覚。悩みや葛藤は尽きないけども、悩めることすらも幸せと思える自分がいます。縁があって、この学校で一緒に過ごせている子たちの人生が豊かになるよう、自分ができることを全力で尽くしたい。この子らと泥んこになりながら、ああでもないこうでもないと言いながら日々、追求していきたいです」

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「髙嶋前監督の勝利に対する執念、甲子園出場にかける思いは凄まじかったです。その思いは絶対に継承していかなければいけないと思っています」
 取材の終わり際、中谷は決意に満ちたような表情でそう語った。
―― 今後の目標を教えてください。
「智辯和歌山で野球をやる、ということは常に全国制覇を目指し続けることだと思っています。そのためにも選手たちにとって、その時その時でベストと思われる練習方法や考え方、環境というものを提供し続けていきたい。現状のベストよりもいい方法は必ずこの世にあるはずなので。ひたすら探し続けたいです」
―― 昨夏、全国制覇を成し遂げたことで、『こうやれば優勝が狙えるチームを作れる』という感覚は芽生えていませんか?
「一切、芽生えてないです。きっと10年連続で優勝しても、そんなマニュアルのようなものは手に入らないような気がします」
――10連覇を果たしても手に入りそうにない。
「きっとそんなマニュアルはこの世に存在しないんですよ。その瞬間、瞬間で選手個人やチームに必要なことをタイムリーに持ってこられるフットワークの軽さ、知識、柔軟性を備えるしかないのだと思います」
―― 昨夏、優勝後の会見で指導方針を尋ねられ、「指導方針なんてまだ考えられない」と答えていましたが、あれは本音ですか?
「本音です。常に子どもたちに目を配り、よりよいものを探し続けているので。自分の指導方針を作っている暇がないんです」

 至極の本音である。

(文中一部敬称略)
取材・文=服部健太郎