身体性と懐かしさの乖離

結局私には、口当たりの良い形に、安全に加工された自然しか手が負えないのかしら。

僅かにある、懐かしい場所では、地平線の遥か先まで、ひたすらに厳しく、あるがままの世界が広がっていた。
そしてそこで生きられるだけの身体を持っていた。


人間は身体だけでは生きられない。
生きるための術を、体外に道具として、後付けする事前提に作られている動物だからだ。

特に深い深い知識が無ければ(そして相応の道具を作れるか、持たなければ)、厳しい環境では生きていかれないのだ。


現代の日本では、大概は、そのような「懐かしいもの」を得るには、その環境や体験を"消費"するために、対価として金銭を払う、という形になる(今手にして無いならば)。

これまた、程度によっては、口当たりの良い形に加工された"自然"を"消費"することになる。あの懐かしい所とは違う。

身体性と現代人の制約、この板挟みに皆苦しんでいるんじゃないか。

だからやっぱり、2拠点生活、現代版参勤交代が必要なんだよな!