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余寒の京都旅「金攫八幡宮」


2024年度の京都検定テーマ問題が先日発表されました。

第25回京都検定二級は「紫式部と京都」で、一級は「法然上人」になります。昨年12月に行なわれた検定試験では紫式部関連の問題がほとんど出なかったのでオカしいなとは思っていました。今回のためにとってたんですね。今年の大河ドラマは毎週欠かさず観ているので私はバッチグーですよ。自信めっちゃありますもん。源氏物語も読んでおけば万全といえるでしょう。法然上人は割と勉強しやすいテーマかなって印象です。法然に関する書籍はたくさんありますし、浄土宗寺院をしっかりチェックしておけばそこまで難しくないと思われます。京都検定の一級と二級で併願することは制度上不可能ですが、同時に勉強することについてはまったく問題ありません。最近神道を勉強していましたが、開宗850年ということで浄土宗の知識も深めていきたいと思っております。

宗教はどれも大変奥が深くて一生をかけても理解できないものばかりです。数週間前とある教団の信者さんたちが無料で聖書を配っているのを見かけました。私は亡き母の聖書をすでに所持していますがはっきり言って意味不明です。辞書レベルの文字の多さに驚愕しすぐ閉じちゃいました。枝分かれする宗派・分派に納得しましたよ。これだけ難解だとそりゃたくさんの見解や解釈が出てきますわな。解説書が売れたり宗祖教祖が尊ばれるわけです。話が脱線しちゃいました。兎にも角にも今年も京都検定がんばりますね。余談はこのくらいにして旅の続きに参りたいと思います。


西大路通を歩いていると観光イラストマップが道端に貼られていました。

そっか、藁の節で生まれる子の性別を占うわら天神ってここらへんだったのね。


わら天神へ向かう途中。

観光ガイドに載っていないであろういい感じの神社を発見しました。


金攫八幡宮きんかくはちまんぐう
当、八幡宮はちまんぐう小北山おぎたやま八幡宮とも呼ばれ、約330年前貞享ていきょう二年卯正月(一六八五年)山城国やましろのくに石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうより御分霊ごぶんれい、この地山城国葛野群かどのぐん衣笠村字きぬがさむらあざ小北山おぎたやま産土神うぶすながみとして大神おおかみ崇敬信仰すうけいしんこうする人々が加護を受け今日に至っています。
祭神さいじん応神おうじん天皇で仲哀ちゅうあい天皇の皇子、御母おんはは功宮じんぐう皇后であります。御在世ございせい御名おんみょう大鞆別尊おおともわけのみことと申し一に譽田別尊ほんだわけのみこととも胎中たいちゅう天皇とも称せられます。天皇の御神徳ごしんとく我国文教わがくにぶんきょうの祖、殖産しょくさん興業の守護神としてあがめられ殊に御長寿ごちょうじゅなるを以って延寿えんじゅの大神として厚く崇敬すうけいされています。
奉遷ほうせんより社頭しゃとうの付近は田圃たんぼの間に僅少きんしょうの人家が散在さんざいする状態でありましたが今日では住所も京都市北区平野桜木町となり京都の西北の一角で人々に親しまれる八幡宮として存在しています。
また、境内東側(境内東側)の大きな木は、「黄金こがねモチ」の木で年中赤い実をたたえお参りの皆様をお迎えしています。
本殿は1967年秋に改修かいしゅうされ、それまでの桧皮葺ひわだぶき屋根から銅葺どうぶき屋根に改め現在に至っています。

2022年10月
八幡宮

あら、石清水八幡宮から分霊された神社さんだったとは。

京都市内で岩清水八幡宮とゆかりのある場所ってたくさんありそうで意外とないんですよね。一番有名なのは誓願寺の御本尊である阿弥陀如来坐像でしょうか。元々は石清水八幡宮にあり八幡神の本地仏として安置されていたものでした。


左に鎮座するお社は拝殿になります。

赤い実が右上にちらりと見えるかと存じます。黄金モチノキの枝になります。最近は解説をしっかり読むようにしていますがこの時は写真撮影のみで全く気づきませんでした。モチノキの全景をしっかり撮るべきでしたね。ごめんなさい。


本殿の右にある赤い鳥居とお社は、正一位稲荷社になります。


さて金攫きんかく八幡宮こと小北山おぎたやま八幡宮は、地元の人に愛されている地域密着型の産土神になります。江戸時代より以前はこのような小規模の神社がたくさんありましたが、明治時代後期に大規模な整理統合が行なわれ、6万もの神社が合祀され消えてしまいました。

明治四〇年頃、1906年から1910年にかけて激しい神社合祀が行なわれ、府県社以下の神社は約19万から約13万へと整理されました。神饌幣帛料供進しんせんへいはくりょうきょうしんの負担軽減と、合併した神社を地方改良運動の場にしようという目的があったと言われています。地方改良運動とは内務省主導による地方の精神性つながりと財政基盤を強くする運動のことです。

神社検定公式テキスト3
『神社のいろは 続』より要約

神道の歴史って学校では教えてくれないからなんかすごく不思議だったんです。地元の神社でも明治時代の同時期にたくさんの神社が合祀されて末摂社になりました。自然発生でそうなったと思っていたのですが、地域の財政事情と内務省主導によるものだったとは。金攫神社は平野神社とわら天神宮のちょうど中間に位置します。地元の人達の篤い信仰心がなければかどちらかの神社に合祀されていたことでしょう。


偶然の出会いに感謝し、再びわら天神宮へ足を進めることにしました。実はここも昼食休憩候補にしていたのですが定休日だったので断念。わら天神のすぐ近くにあるお店なので機会が巡ってきたらまた立ち寄りたいと思っています。以上です。

次回は安産・子授けで知られているわら天神宮でお参りをします。全二回を予定していますので乞うご期待。



今回の参拝スポット


追記

note公式マガジンに記事が掲載されました。ありがとうございます。


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