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「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365」を読んで教養は身につかない

noteというサイトを漁っていたら「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365」という本の紹介がされていた。この本を読むと教養が身につくらしい。

もちろん、そんなくだらないものを読んで教養が身につくわけはない。そんな事は多少なりとも教養がある人間にはすぐに分かる事だ。だからこういう本を手に取る人は"全く"教養のない人なのだろう。

人と喋っていて、誤解しているなと思うのは、教養というのは知識という物質的な断片の集積だと思っている事だ。

知り合いと話していると「ヤマダさんは博識ですね」などと言われる事がある。私は「そんな事はない、自分は知識は少ない」と返す。相手は「またまたー」と言う。

私は自慢話をしているわけではない。私は本当に知識量は少ない。ただ、得た知識について考えるという事は余分にやっているつもりだ。

ゲーテは、何の本を読んで影響を受けたのか、という事を「太った人間に、「あなたは鶏肉を食べて太りましたか? 豚肉を食べて太りましたか?」と聞くようなものだ」と言っていた(うろ覚えだが)。

教養というのはそういうものだ、と言っても伝わらないだろうか。本を鶏肉や豚肉などの「食物」だとここでは考えてほしい。食べたものは消化して、肉体にしていかなければならない。

食物なら人間の身体はこれを勝手にやってくれるが、教養においてはある程度、人為的に努力しなければならない。知識をただ暗記するだけならAIにやらせておけばいい。人間であるなら、知識を吸収して、肉化して、形にして、自らの知的秩序にしていかなければならない。

それが教養を得る、教養を作るという事だと思う。雑学を無限に覚えたところで、コンピュータのデータベースと変わらない。それは教養ではない。教養というのは、知性と魂が結合しなければならない。

そして知性と魂を結合するのには、他人には見えない努力が必要とされる。それを具体的に言うのは難しいが、例えば小林秀雄の文章にはそういう結合がよく現れている。

知性と魂が結合すると、文章表現としては"文体"という形で現れてくる。そういうものが出てくると、知識はもう自分と一体になっているので、データベース的存在からは逃れている。

教養というのはそういうもので、知識をただの知識としていてはならない。外的な知識を"自己"に化していく事。そういう事が大切ではないか。

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