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人は何故「ブサイク芸人」で笑うのか

 チャップリンの自伝にこういう話が載っているようだ。まだチャップリンが子供の頃だ。
 
 食肉加工工場から一匹の羊が逃げ出した。逃げ出した羊は街路で暴れまわり、羊を捕まえようとした人が派手に転んだりしたと言う。
 
 それを見てまわりの人々は笑い、チャップリンも笑った。ただ、チャップリンはその時にふと気づく。
 
 「羊が跳ね回って、人が転んだりする様子を外から見ていると可笑しいし、笑える喜劇だ。しかし羊の立場に立ってみるなら、羊は、捕まれば殺されて食肉にされるから、羊にとっては必死の行為に違いない。喜劇と悲劇の違いは物の見方の違いに過ぎない」
 
 そのような事をチャップリンは考えたらしい。
 
 さて、タイトルの「ブサイク芸人」というものは、芸人の中でもとりわけ、顔がブサイクな芸人がその「おかしさ」を売りにして、メディアに出ている、そうした人達の事だ。
 
 昨今は見た目で判断する「ルッキズム」は良くないなどと言われているが、そんな中でも「ブサイク芸人」がテレビに出るのが許されているのは、ブサイク芸人自身が、自分がブサイクだと言われて笑われるのを承認しているから、という事になるだろう。それにそもそも、大衆にとってはこうしたガス抜きがどのみち必要になる。
 
 一般の視聴者で「何も考えずに楽しめばいいのに」と言う人がいる。こういう人は非常に多い。こうした人達の為に、何も考えさせる事のないコンテンツが次々と生み出されている。「ブサイク芸人」もその一つと言っていいだろう。
 
 「ブサイク芸人」が可笑しいのは、何故だろうか。それは彼がとりわけブサイクだからであり、普通我々が持っている顔の印象の標準から大きく外れているからだ。要するに奇異なものだから可笑しいのだ。
 
 奇異なものを笑うというのは、その反対の「普通」の肯定をも意味している。「普通」というものから外れたものはお笑いにおいては「ボケ」と言われている。「ボケ」に対して「ツッコミ」を入れる事によって、「普通」から外れたものを笑い、普通から外れた奇異なもの(「ボケ」)をまた「普通」の価値観の中に組み込む。
 
 異端なもの、奇異なものを馬鹿にして、自分達の価値観を承認する、そういう目的がお笑いにおいては潜在している。
 
 だから大衆はお笑いが好きであり、大衆社会の現在ではお笑いが大人気なわけだ。大衆は自分達が普通である事に自信を持っており、普通を越える何物をも認識できないし、認識しようともしない。彼らは普通以外のものを笑う事によって、普通である自分達を肯定する。
 
 「普通」から外れるという意味においては、天才も犯罪者も同じ意味しか持たない。大衆は天才も犯罪者も共に忌み嫌う。ピカソの絵を「小学生でも描ける」と笑いたがるのは、彼らが普通を越えたものを除外したがるからだ。
 
 ブサイク芸人が可笑しいのは、彼の顔が標準から外れているからだ。人はブサイク芸人の顔の奇異さを笑う。その場合においては、その裏において、自分(達)の顔は少なくともあれほどブサイクではない、という安堵がある。
 
 「無知は罪である」という言葉があるが、「何も考えずに楽しめばいいのに」という人は、その裏にどういう価値観が潜在しているのか、決して考えたりしない。チャップリンの話で考えるならば、彼らは羊が暴れまわるのを見てゲラゲラ笑うだろうが、羊がやがて殺される運命である、とは決して考えない。
 
 罪のない談笑、罪のない喜び、罪のない幸福、そうしたものの背後に人間の業や悲しみ、空虚といったものが詰まっており、しかしそうした事を人々に指摘しても、人々はそれを拒否する。だが人々が満場一致でそれらを拒否しても、そうしたものが消え去る事は決して無い。
 
 例えば、ブサイク芸人として活動している人が、彼がこれまで、自分がブサイクである事で、人生でどれほど悲しい思いをしてきたか、どれほどの辛酸を嘗めてきたかを切々と吐露したら、次の瞬間にはもうブサイク芸人では笑えなくなるだろう。チャップリンの件と同じく、他者の内面に深く入り込んでいくと笑いは消えるのである。というのは、他人からどれほど可笑しく、馬鹿馬鹿しい事だとしても、本人にとってはそれは必死の事態であるからだ。
 
 現在はお笑いが隆盛であり、その反対に、他者の内面の洞察に基づく文学は下火となっている。それというのは大衆が本質的に外面的にしか物を見ようとしない人々であり、そうした人々への奉仕だけが社会にとっての良い事、正しい事とされているからだ。それ故に軽薄で外面的なものが世界を覆っているわけだが、とはいえ、それぞれが自らの内面の中に持っている悲しい運命が消えたわけではない。

 ブサイク芸人を人が笑うのは、それが外面的だからである。あるいは、視聴者が外面的にしかものを見ないからだ。彼らはそれ以上の見方をして自分の精神に負担を掛けるのを好まない。
 
 大衆は外面的なものを好むから、テレビではお笑い芸人やモデルといった、外面を全てとする人達によって埋め尽くされている。視聴者はこれらの人間の内面について考えない。

 ブサイク芸人が可笑しいのは、ブサイクだという外面にしか興味を持たないという、そういう関係を視聴者とブサイク芸人が双方、許し合って結ぶからであり、真にブサイク芸人の内面に入っていけば、もはや笑えなくなってしまう。だが大衆にはそういう表面的、形式的なものが必要であり、彼らはいつも自分達よりも「下」の存在をゲラゲラと笑って、自分達はあそこまでひどくはない、と安堵する。そういう関係がブサイク芸人が可能な関係性であり、この関係は悲劇にどこまでも結びつかない。

 大衆はどこまでも外面的な関係を好むのであって、そういう意味においてはイケメンとブサイク芸人は全く同じ地平に立っている。人々は全てを可視化する事を要求し、全てを外面化する事を要求する。だからその要求を果たせる人形のような外面的なタレントが人気となる。

 ブサイク芸人が可笑しいのは上記のような理由の為だ。実際の所、可笑しいのはブサイク芸人の顔ではなく、そうした人を本気で嘲笑っている人々の方なのだろう。一方ではルッキズムは良くないと言うが、とはいえ、他者の内面や本質を洞察する目を彼らは持っていないので、ルッキズムは良くないと言いながら、同時にイケメン・美女・ブサイクといった人達が駆り立てられて前面に出てくる。

 こうした関係は全て外面的であり、外面が全てである人々にとってはそれ以上のドラマは起こらない。テレビを見てみれば、起こるのは全て、茶番であり、茶化しであり、おふざけであり、パロディでしかない。そしてテレビの世界に悲劇らしきものが出てくると、それはいかにもしかつめらしい表情で、おどろおどろしい音楽と共に出てくる。

 要するにそれは劇化されて、誇張された悲劇であるが、内面の痛切さに触れるドラマではない。そうではなく、悲劇もまた、せいぜい一般大衆が避けうるような、アクシデントの一部としてしか描かれない。結局のところ、「普通」を承認するために、様々なアクシデントは乗り越えられる必要があるのだ。人々は自らの存在にあぐらをかき、その本質に踏み込む事を決してしない。

 こうした世界においては全ては外面的であり、内面の痛切な痛みはどこまでも避けられ続ける。

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