「"質"はどうでもいい」 ー松本人志のスキャンダルと関連してー 

 松本人志への「逆告発」が増大しているというネットニュースを見ました。「逆告発」というのは、芸人の松本人志が、性的なスキャンダルを告発された事に対する「逆」のようです。
 
 「逆告発」はどういう内容かと言うと、「私は松本人志の笑いに救われました」といったもののようです。松本人志に対する肯定のようです。
 
 おさらいしておくと、そもそも松本人志に対する「告発」というのは、松本に性的行為を迫られた事についての、女性側の告発です。これは週刊誌に載りました。「逆告発」というのは、それに対する「逆」のようです。要は松本擁護の発言です。
 
 私自身はこれらの現象についてほとんど何も思わない、というか、そもそも松本人志を神格化している今の社会、大衆が異常だと思ってきたので、どうでもいいというか、松本がテレビに返ってこようがこまいが、ほとんど興味はありません。
 
 松本人志がテレビから消えたところでまた同じような人が補充され、大衆は自分と似たような無知な、"面白い"人間を神格化するでしょうから、松本の処遇によって状況が変わるとは私は思っていません。
 
 私自身はそんな感じですが、しかしこの「逆告発」は今の社会の特徴がよく現れていると感じました。それでこのエッセイでは取り上げています。
 
 「逆告発」で言われているのは松本人志の"芸"に救われた、助けられた、感激した、といった事です。
 
 こうした事は、一概に否定できないと思います。私自身、通俗的な作品に感動したり、「助けられ」たりした事はあります。ただ、私の場合は、そういう事があっても、あくまでもそういうものは通俗的な、二流の作品(芸)であると、後から自己判断を下します。 
 
 人間というのは色々なブレがありますから、二流の作品、三流の作品に感動したり、場合によっては命を助けられる、そういう事も現実にはあるでしょう。私もそうした経験はあります。ただ、こういう場合、人はそういうものを「自分はあの人の芸に助けられたけど、あの人の芸は客観的に考えれば一流とは言えない」などと考えたりはしないでしょう。そこが問題だと思います。
 
 こうした場合、人々においては、人々がどう感じ、それをどう受け取ったかが全てであり、感動したその作品が、一体どれだけの価値があるのだろうかとは、真剣には考えないでしょう。今は大衆の感受性、感覚が全てとなっています。それ故に、作品の質が二流だろうが、三流だろうが、それが大衆を感激せしめたという理由によって、その作品は極めて優れた作品のように扱われます。
 
 こうした大衆の態度は、たしかに一理あります。人間にはブレがありますから、一流の作品に感動できない場合もあり、三流の作品に涙を流して救われる事もあります。現実にはそうした事はあるでしょう。とはいえ、そうした主観を絶対的に正しいとする今の社会の態度は私にはおかしいものに感じます。
 
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 松本人志の問題に戻れば、私は松本人志のレベルというのは彼の映画を見ればはっきりすると思っています。松本人志は、映画を何作か作りました。しかし、その評価はあまり良くなかったので、映画は途中でやめて、またお笑いに戻っています。
 
 松本人志の映画を見れば、松本に教養が欠けているのがわかります。テレビの「ノリ」をそのまま延長すれば、そのまま映画で通用すると勘違いしてしまったのだろうと思います。松本人志の映画で心から「良い」と言える映画は私には一つもないと感じました。
 
 松本人志というのは私からすればそのくらいの人ですが、大衆はそうは見ません。おそらく、松本人志が、明石家さんまの代替物としてこれほど人気が出たのは一つには、松本が教養が欠けているからでしょう。
 
 松本が無知な、大衆的な、あけっぴろげな態度である事が大衆をして「同類だ」と思わせるような安心感を与えた。私はそう分析しています。
 
 私からすれば、松本人志が「一流」ではないのはどこから見ても明らかです。しかし大衆はそうは見ず、松本人志を一流の人として遇してきました。それはどうしてかと言うと、人は自らの見たいものを見るからです。自らの価値判断によって世界を判断するからです。
 
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 まとめると、松本人志という人物がそもそも、一流ではないのに、一流以上に神格化されていた事に問題があると思います。
 
 もちろん、私の判断基準が大衆のそれより間違っているという批判もあるでしょう。それはその通りかもしれませんが、それについて言及していると話が進まないので、ここでは私の価値判断が正しいと仮定して話を進めていきます(いずれはそれら全ては歴史が判定してくれるでしょう)。
 
 話を戻します。確かに、「松本人志の笑いに救われた」という事は、現実にはあるのかもしれません。しかしそれによって、「松本人志の芸は一流である」という事実と、イコールになるとは思われません。
 
 このあたりをごまかす事に今の大衆社会の詐術があると思います。大衆の価値判断が全てなので、どんなくだらないものでも、彼らが神輿の上に載せて担げば「神のようなもの」になってしまうのです。
 
 私はこの松本人志のニュースを知って、立川談志が話していた事を想起しました。
 
 立川談志は、いじめで自殺した子供がいる、というニュースを見て、次のような発言をしていました。
 
 「確かに、いじめられて死んだ子供はかわいそうだが、しかしいじめた奴といじめられた奴、内容としてはどっちもどっちなんじゃないか? そういう事があるんじゃないか?」
 
 私の要約ですが、立川談志はそういう事を言っていました。
 
 ここで、立川談志が言いたい事は、今の世の中にはほとんど伝わらないと私は思います。それ故に、立川談志は社会の中心から押し出された、何となくアングラ的な雰囲気の人という烙印を押されたのだと思います。
 
 立川談志がここで言いたいのは「内容=質」という事だと思います。今の社会は「いじめられて自殺した子はかわいそうだ」という結論で終わります。私も、確かにかわいそうだとは思います。
 
 ただ、立川談志はそこからもう一歩踏み込んで、そういう価値判断の先にある価値判断を求めようとします。それが「いじめられた子」というのは、「質的にはどうだったのか」、その「内容」というのはどうだったか、という事です。
 
 私自身は、いじめられて自殺した子は、自らの「質」を形作る時間もなかったので、心底かわいそうだと思いますが、談志の言いたい事はわかります。
 
 ここで談志が問うているのはその人間の「質」という事です。あるいはその人のしている事、しようとしてる事の「質」です。この「質」はこの社会では全くと言っていいほど問われていないように思います。
 
 松本人志の話に戻れば「私は〇〇才の時に松本人志の芸に救われた!」というのは本当なのでしょう。ですが、その人はそうした経験から一歩を踏み出して考えようとはしません。
 
 残念ながら、その人の「質」や、その人の行為の「質」は、松本人志への逆告発のような、感傷的な事柄と一致するとは限りません。野口英世がその典型ですが、人間的には最悪の部類の人物に最高度の「質」が伴っている場合もあります(私の知る限り、ニュートンも性格は悪かったようです)。
 
 その事柄の質というのは、「感激した!」「救われた!」のような事柄とはすぐに一致するとは限りません。偉大な文学作品を読んでみてください。まず間違いなく、ベストセラー本よりもわかりにくく、読みにくいはずです。
 
 しかしそうした作品の中に籠められたものが真に偉大なものであるというのは、普通の事です。真に優れたものが、我々にはすぐに理解できるとはわからないーーこれが問題となるポイントの二つ目です。
 
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 話が長くなりそうなのでまとめますが、私が言いたいのは「質」の話は誰もしていないという事です。
 
 「松本人志の芸に感激した!」と言えば、すぐに「松本人志は凄い!」という定式に飛びついてしまう。ここに理性による価値判断、吟味がないというのが今の社会のおかしさだと思います。
 
 私自身の話をすれば、私は中学生の頃、司馬遼太郎が大好きでした。司馬遼太郎が好きで、むさぼるように読んでいました。しかし大人になって、より優れたものを知って、今になると、私は司馬遼太郎を「一流」だと判断できません。ただ、司馬遼太郎を読んだ思い出は私の中に残っています。私は思い出と価値判断は分けています。
 
 客観的に考えられたそれ自体に内在する「質」というのはどうでも良く、ただ自分達を喜ばせるものだけが素晴らしい、というのが今の社会です。
 
 思い返せば、東京オリンピックの開会式のパフォーマンスは、極めてひどいものでした。国家総出で、素人以下の学芸会を世界に晒す事になりました。開会式は批判されましたが、そもそも「質」なんてどうでもいいというこの社会の現状を素直に映しただけの事ではなかったでしょうか。質はどうでもいい、自分達が楽しければいいという結論が、ああした内輪芸であり、それこそが今の社会そのものなのだと思います。
 
 そんなわけで、今の社会では「質」の話はほとんど誰もしません。だから三流以下のアーティスト、クリエイター、ユーチューバーといった人達が鬼のように威張っているわけです。松本人志のスキャンダルに対する反応を見ても、それ自体に備わる「質」の話は誰もしていなので、松本人志の処遇がどうなろうが、この社会はこのまま、質の欠いた、面白がらせ、内輪芸、露骨な嘲笑や茶化し、そういったものが大衆の耳目を潤す為にメディアの上に繁茂し続けるのだと思います。

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