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心とはそもそも"闇"であるという事


 以前から気持ち悪いなと思っていた風潮の一つが、殺人事件などが起こると、テレビニュースで、アナウンサーが必ずように犯人の「心の闇」に言及する、という事だ。
 
 これはテレビが、殺人犯の「心の闇」を追う、などして、どうして彼が殺人事件に至ったのかを分析する際によく使われる。もっとも、あくまでテレビなので、犯人の「心の闇」に真摯に迫るというよりは、見ている人間が適当に納得できる程度に取材した、というものが大抵だ。
 
 私はこの、犯人に「心の闇」を見るという仕掛けが以前から気持ち悪かった。というのは、誰にだって「心の闇」はあるし、そもそもで言えば、心というのが一つの「闇」だからだ。
 
 哲学者のビョンチョル・ハンは「透明社会」という本を書いている。これは現代社会が透明性を求める事に対する一種の抗議となっている。世界が透明性を求める事、肯定性のみを良しとして、否定性を消去しようとする事、その事が世界からあらゆる文化を、歴史を、人間を抹殺する事に対する哲学的な抗議の書だ。
 
 「透明社会」というタイトルの通り、世界が全て透明になっていく事を痛烈に批判している。社会が透明になるというのは誰しも実感のある部分であろうが、今の若い世代にはそもそも、「透明でない事」に「価値」がある(あった)というのもわかりにくくなっているかもしれない。
 
 全てが透明な社会においては、例えば、人間の自意識、つまり「心」というものは余計なものである。それを端的に表すのがタレントが崇拝されているという事だ。テレビやインターネットで活躍するタレントというのは、外面的な存在であり、秘められた内面というのは全く要求されていない。
 
 アイドルファンがアイドルの秘められた内面、深い内面性に感嘆するという事はありえない。アイドルは「外面が全て」である存在として現れているから、あのように人気なのだ。それは人々がそもそも内面を欲していないからであり、他人に内面がない方が恐怖が少ないからであり(内面の欠けた人間はわかりやすい)、そもそも、自らの内面から逃げ出そうとしているからだ。
 
 外面が全てである事が、メディアを通じて要求される。例えば、あるアイドルグループが「仲良し」であるという印象を視聴者に与えるなら、そのグループはずっと「仲良し」でなければならない。ここでは内面は外面化されており、透明化されている。
 
 しかしそもそもで考えれば、人間の内面(自意識・心)そのものが社会にとっては一つの不透明性である。面従腹背という言葉があるが、社会や権威からすれば、面従しているのであれば、腹の中身も服従していて欲しいわけだ。
 
 権威主義的な社会の圧力が強まると、個人が内面を持っているという事自体が許されない。内面を外部化し、社会の方向性と一致されるのが望まれる。それはすなわち人間の「暗さ」を排除し、「明るい」社会になる事を意味する。
 
 内面のない社会というのは明るい社会だ。今の社会はもしかしたら「明るい」のかもしれない。内面をさらけ出し、人々の要求と完全に一致する人間が人気となる。政治的イデオロギーでもいいし、アイドル、タレント活動でもいい。なんでもいい。

 とにかく、欲されているのは個人が自らの内面を世界に売り渡し、世界と同調する事。そして世界とは固まった大衆の別名であり、彼らは、内面や心、自意識、暗さというものを欠けた個人を愛する。暗さは気味悪く、理解できないものであるから。
 
 内面が欠けた人々が構成する社会は、滑らかで、均質であるだろう。そうした人々には内面という暗さが欠けており、彼らは明るく朗らかであるだろう。要するに彼らは「馬鹿」であるだろう。社会を一つのイデオロギーで統制したい人々は、人々が馬鹿である事を望む。頭脳はたった一つあればいい。人間が頭脳を持つ必要はない、頭脳は、ただ上位の頭脳に従うためだけに行使される。
 
 世界に対して暗い暗部を自らの中に持つ人間は敬遠される。逆に、内面のない人間が好まれる。内面のない人々の世界は合理的であり、情報の伝達も速やかであろう。命令も速やかに実行される。思考とは停滞であり、保留であり、反抗である。社会が思考する人間を撃滅しようとするのは、社会運営の側からは一理ある。この破壊運動は例えば「AIの称賛」といった最新型のトレンドの見かけを持って行われる。
 
 ※
 「犯罪者には心の闇がある」とは、当たり前のように言われるが、これは因果関係としては逆であるように思われる。
 
 彼が犯罪を起こしたから、その人間には「心の闇」があるに違いないと周囲の人間が考えたがるのだ。
 
 何故そう考えたがるかと言うと、犯罪者は「心の闇」という、一般人は持っていない不気味なものを持っているから、あのような犯罪に走ったのだ、と結論すると、犯罪を犯していない、「正常」な自分達は安心できる、と感じられるからだ。自分達はあの異常な犯罪者達とは違うのだ。「心の闇」なんか持っていないのだ。そう考えると、自分達の優位が感じられ、安心できる。
 
 しかしそんなゲームをしているうちに、正常と異常、一般市民と犯罪者の区別はなくなってきてしまった。利益を得るにためには何をしてもいいという思想が広まり、格差が拡大し、社会が不安定になってきて、犯罪者が称揚されたり、正常人が「臆病」と見られたりする事が起こってくる。
 
 今やそんな風になっているわけだが、相変わらずテレビニュースでは「犯罪者の心の闇」が語られる。
 
 最初に書いたように、そもそも私は、人間の心自体が、社会のテーゼからすれば一つの闇であると思う。それ故に、人は社会の規範を越えて、悪を為す自由と、社会の規範を越えた善を為す自由を持っているのだと思う。それが「個人」であると思う。
 
 そして、全ての人間から悪を行う可能性を取り除こうとすれば、それは人々の心を完全に支配し、糾弾し、人間を人間でなくしてしまうので、そうした社会はあらゆる犯罪者やクズを集めた悪以上の「悪」としての社会になる。
 
 ネットでもよくいるが、極端な「善」の政治的イデオロギーを唱える人間が、自分の言っている事もよくわからず、「この件は国家がもっときちんと管理すべきだ」というような事を口走ってしまう。それがどれほど恐ろしい事か、またそうした意見というのが、どういう自尊心、どういうエゴイズムから来ているか、そうした人間は自覚できていない。
 
 自尊心の発露、他者を思うように支配しようとする欲望は、善の仮面をつけて現れてくる。
 
 ドストエフスキーは未公刊ノートで次のように言っている。
 
 「わたしが望んでいるのは、わたしが悪を行うことができないような、そんな社会ではなくて、私はどんな悪を行うこともできるけれど、自分を悪を行うことを望まないような、まさにそうした社会なのである。」
 
 ここに人間の自由を見ようとする作家の立ち位置がある。しかしこの自由は善の可能性だけではなく、悪の可能性も含まれている。そしてそれこそがおそらくは『人間』なのだろう、と思う。
 
 ※
 話を戻す。犯罪者に「心の闇」があるという見方をしている限りは、犯罪者を自分達、正常な人と区別して、上から見下ろして、単に安心できるような因果関係を見つけ出す程度に留まるだろう。
 
 実際、犯罪者と非ー犯罪者を区別するのはその行為に過ぎない。人を殺したいと思った事、あるいは殴りたいと思った事、そこまで行かなくても、他人を強く憎んだ経験は誰にもあるだろう。犯罪の芽は誰の心にもある。違いはそこから行動にうつるかうつらないか、だ。

 確かに、犯罪者の中には異常としかいいようのない人間もいる。あるいは多くいるかもしれない。しかしその異常性は我々と異なる存在から発したものではなく、我々の中にある芽が「悪」の方向に大きく成長してしまったものとして考えられる。犯罪者と正常者というのは、どちらも同じ「人間」であると私は思う。
 
 しかし、これらを決定的に異なる存在であると考えたい、そうした欺瞞というのが、単なる欺瞞にとどまらず、一つの社会的な視点として展開されている。
 
 犯罪者はいつも異常で、普通人とは違う「心の闇」を抱えている、とそう考えれば、自分達の「心の闇」については考えなくて済む、というような方法論が取られている。しかし、心の闇は誰しもが持っている。また、持っていない人間が犯罪を犯さずに済むわけでもない。無邪気な人間が無邪気なままに人を殺す事は可能だ。内面性が人より少ない熊や虎が人を食っても、熊や虎にとっては普通の事態だろう。

 おそらく、人間が人間である限り「心の闇」がなくなる事はない。というか「心の闇」がなくなったら、それはもはや人間ではない。それは機械であり、画面の中の「イメージ」に過ぎない。
 
 完全に正常なる人間というのは、全く犯罪を犯す可能性がない存在だろう。しかしそれは心を持っていない人間であり、このような人間は社会のテーゼに従って、どんな巨大な犯罪に加担しても、一切の良心の呵責を覚えないだろう。

 というのは、この人間はあまりにも正常であり、社会の命令に対して一切の抵抗を持たず、社会に対して全く心の暗部を抱えていない存在であるから、どのような悪行も自らに課せられた仕事として忠実に実行するからだ。
 
 ナチスドイツのアイヒマンはそんな存在だった。彼は、立派な小市民だった。それ故に、彼は世界に対して抵抗する力を一切持たず、後に死刑に結実するような悪行を見事に、忠実に果たしたのだった。

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