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朝三暮四氏のなろう批判について

 自分は「小説家になろう」というサイトを利用しているのだが、最近はどうもこのサイトは人気がなくなってきたな、と思う。使っている肌感覚の話だが。

 それで興味本位で「なろう批判」でウェブ検索してみたら、朝三暮四という方のなろう批判をしている記事が目についた。これを読んでみると、非常に真っ当な「小説家になろう批判」になっていた。正直に言って、自分はネットでここまでまともな批判がお目にかかれるとは思っていなかった。

 言っている事は全部もっともだが、例えば

「⑩大衆読者に対して『世間一般的な価値基準で、名作を自力で選別してもらい評価をするように働きかける』のは完全に無駄な行為。」

 というのにも納得。朝三暮四氏はネット小説というものがどういう構造で消費されているかを説明しつつ、上記の結論を引き出してくる。これは私も同意だ。

 例えば名作小説に限らず、ミシェル・フーコーの哲学書のようなものがいきなりwebに掲載されたところでろくにポイントもアクセス数もつかないだろう。そして、アクセス数が少なければゴミ、ポイントが少なければゴミだと思っている俗衆に、こうした書き手は散々馬鹿にされるだろう。

 「なろう系が死ぬ(オワコン化する)時は、即ちWeb小説そのものが死ぬ(オワコン化する)時である。」

 というのも納得。インターネットにおけるコンテンツの消費は常にそういうものだ、という本質を突いている。「なろう系」が死んでも「なろう系」と同じような、脳死状態で瞬間消費できるテキストは新たに浮上してくるだろう。どういう形を取るかは知らないが。

 それと、記事のどこにあったか確認できなかったので自分の記憶で言わせてもらうと、

「なろう系の作者は作者本人の気持ち悪い妄想を吐き出しているのではなく、あくまでも読者のニーズに応えようとしてああいう形になった」

という指摘も大いに納得できた。よく「なろう小説」の作者への批判として、作者の感性への批判があるが、実際にはそもそも感性をいかに消すかというのがこの手の作者が努力している事だろう。彼らは言ってみれば、「なろうの読者」に好まれる為に特化した存在であり、その結果として、ああした小説を書く事になったというのだろう。

これは以前から自分も言っていた事で、ヒットメーカーというのは、ものすごく才能のある天才、ではない。そうではなく、彼らは大衆の好みに合わせて自分を無にできる人の事だ(あるいは自分の好みがたまたま大衆と合致した人)。簡単に言えば、彼らは魂を売り渡す代価として現実の富を得たのだ。

 それと、最後の方のウェブ記事に関しての話も面白かった。引用すると以下の部分だ。

(ネットで収益を得るための広告ビジネスモデルの過剰な台頭によって、純粋な情報精度の高さや内容で勝負しようとせず、人気の記事の情報をそのまま流用したり、検索アルゴリズムを分析&勉強して評価システムにひたすら迎合しただけの中身のない質の低い記事を連投するユーザーが大量に増殖してしまったというのが原因のようであり、全体の信用が低下してきている。ある意味で、今のWeb小説と全く同じような問題点を抱えてしまっている)

 こうした指摘もなるほどという感じだった。結局、これらの全ては大衆化の極限が招いた事態という事なのかもしれない。

 私の出身は京都だが、たまに京都に帰ると、京都駅や観光地は外国人で溢れている。有名な観光地などは観光客で溢れかえって、身動きも取れない。

 全てが自由であるからこそ、不自由になった、という事態が至るところに頻出している。こうした事態はもう一度考え直すべきだ…と言いたいところだが、この大衆的自由をありがたく享受している人々にはこの事態を考え直す事は決してないだろう。

だから、全てが自由であるが故に全てが崩壊するという現象を通してからしか、真に新しいものは現れないのかもしれないな、と思う。「なろう小説」が消えても、「なろう小説」のような瞬間消費型コンテンツは形を変えて現れ続けるだろうし、この気味の悪い永遠はしばらくは続くだろう。私としては時間として存続する"永遠"のその先にあるはずの"時間"を指向したいのだが。

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