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批評 うみのて「SAYONARA BABY BLUE」

 芸術家というのは「他者」を通じて鑑賞者と心を通わせるものである。芸術家は直接、自己を対象に注ぎ込んだりしない。
 
 仮に、そんな風に見えても、つまり芸術家が「自己」を語る場合においても、その自己とは芸術家によって十分練られ、作り込まれた、"仮面"でなければならない。そうでなければそれは芸術作品とならない。芸術とは間接的なものなのだ。
 
 バンド「うみのて」の「SAYONARA BABY BLUE」という楽曲は終始、一人の女性に目を注いでいる。作詞作曲者は笹口騒音という男性なので、本来的には、〈自分ではない〉存在であるはずだ。本人ではない、他者を歌う事が芸術になるのは何故なのだろうか。
 
 「水際に君がいる」
 
 楽曲は静かな歌い出しで始まる。オフィシャルのPVを見ると、海に面する崖に立っている女性が映し出されているので、「水際」とは「海」である事がわかる。
 
 この楽曲が歌っている一人の女性とはどういうものか。歌詞と、PVの内容と、推測を交えて考えてみると、次のようになる。
 
 PVには終始、一人の女性が映し出されている。彼女は曲の最後においては裸になって、海に飛び込んでしまう。おそらくは自死であろう。
 
 歌詞の内容から、どうして彼女が自死に至ったか、推測してみるなら、男に捨てられたか、裏切られたかしたのだろう。
 
 歌詞では「彼のことがそんなにも好きなのかい」とか「彼の元へ」といった歌詞の後に「見るものすべて疑って感じることもなくなった」となっている。つまり、彼女は何らかの形で好意のある男性との関係に傷ついたという事だろう。
 
 彼女はその後、自らの身を売る。ここもはっきり言われているわけではない。歌詞では「数字だけが生きる意味 私の価値教えてよ」「3、4万じゃ話しにもならないわ」とあるので、おそらくは身を売ったのだろう。心が傷ついて、売春に走ったのだろう。
 
 その後は「汚れちゃった私でも 死にたいなんて思わない」「落ちれば落ちるほどドキドキが止まんないの」とあるので、自らが堕落していく事に対して、快感を感じているのがわかる。
 
 しかし、この快感は実際には、本当の喜びではない。これは、自らが浸っている汚辱と堕落を肯定するしかない、哀れな精神が発した自己弁護に過ぎない。こうした感情は本当の喜びではないし、こうした人物は心の底では、こうした状況を脱するのを望んでいるだろう。
 
 彼女は堕ちていき、"海"にたどり着く。楽曲の終わり際には、「水際に君がいる」という最初のフレーズに戻ってくる。この楽曲では女の内面と、女を見ている観察者の視点が交互に現れてくる。
 
 「思い出す おぼえてる 忘れたわ SAYONARA BABY BLUE」 これが最後の歌詞だ。このフレーズが流れると共に、PVの中の女は服を脱ぎ捨てて、海に飛び込む。ヤケクソになって、海に飛び込む女が描かれている、と考えていいだろう。
 
 ※
 実際に、こんな女性が現実にいたとしても、おそらく彼女は極めて陳腐な存在だろう、と私は思う。男に裏切られ、傷つけられ、風俗で働いて、身も心にぼろぼろになって、最後には自殺する。確かに哀れではあるが、それだけでは平凡な、この世界においては陳腐に繰り返されている悲劇に過ぎないだろう。
 
 しかし、それは統計学的な意味における陳腐さに過ぎない。詩人は、平凡なものを特別なものとして際立たせる。というより、その為に、詩人がいるのだ。
 
 楽曲の最初から「水際に君がいる」と、詩人は彼女を見つめる。詩人は彼女を見つめ、彼女の内面にあるものを歌い上げる。
 
 この楽曲が、秀逸なのは、私には特に、笹口騒音が感情を抑えて、静かに歌っている為だと思う。また、楽曲それ自体も、波が寄せては返すように、静かなうねりを持った、どこか気だるい、眠たくなるような曲調になっている。
 
 悲劇的な事柄は、大声で叫んだり、大げさな身振りによってよく表現されるとは限らない。「SAYONARA BABY BLUE」は、静かな抑えたトーンで歌われる事によって、女の中にある悲劇性や激情が楽曲の表面に静かに浮かび上がってきて、それが聴いている人間にも少しずつ伝わっていく。
 
 芸術は直接的なものではない。抑制された表現だからこそ、伝わるものもある。女の中にある様々な激情を笹口騒音は静かに歌っていく。その激情は、笹口騒音その人のものでもあるだろう。だからこそ、彼はその激情を対象の中に見て、自らの歌声として歌っていく。
 
 陳腐な女の内面を取り出し、それを一人の他者として、温かく優しい視線を注ぎ、その内部にあるものを自らの歌声で歌っていく。それ故に一層、彼女の最後の行為は悲しいものとして我々の目には映る。
 
 詩人は、現実的に人を救う事はできない。あるいはできるかもしれないが、それは詩人としての仕事とは違うものだ。詩人というのは、究極的には、人が人を救う事ができないという根源的な現実を踏まえた上で、救う事のできない他者の中にあるものを世界に向かって開示する。
 
 こうして、詩人は救われない者の存在、その内部にあるものを世界という陸地に救助する。もちろん、そうはいっても、救われない人間はやっぱり、現実の重荷に押し潰れされてしまうのだが。
 
 「SAYONARA BABY BLUE」において、詩人はあくまでも優しく、慈愛に満ちた視線で女を見続ける。だが詩人は彼女を決して助けられないのを知っている。彼女はだから、海に飛び込まなくてはならない。
 
 我々がこの楽曲を聴いて、優しさと悲しさに同時に胸が締めつけられるのは、女に対するあくまでも優しい視線が女をある意味では救っており、しかし同時に、女はやっぱり女自身であって、死ななければならぬ存在である為であろう。
 
 人は死ななければならない。どんな人間も孤独の内に死ななければならない。だが、彼を見ている"誰か"がいれば、彼の存在はある意味で救われているだろう。しかし彼本人は自らが「救われている」事に気づいたりしないだろう。
 
 詩人が女に注ぐ視線はあくまでも優しい。楽曲全体のリズムと同じように。しかしそれ故に、女が死ななければならない運命、女の激情が悲劇的なものであるという事が、際立って、それが我々の胸を締めつける。
 
 私にはエレクトリック・ピアノの優しい音色が特に印象的だった。この音色があくまでも優しく、温かい色調であるからこそ、優しさの中にくるまれた激しい感情を強く感じた。
 
 「SAYONARA BABY BLUE」は私にはそんな曲に聴こえた。この曲の中で、詩人が歌っている女は陳腐な、現代の犠牲者の一人に過ぎない。現実にこんな女もいるだろうーーところで、詩人はこの女の存在を遠くから見て、それを「描く」事によって、ある意味でこの女を救出している。
 
 それは言ってみれば、神が(万能にも関わらず)決して人間を救う事ができず、何一つしてくれないにもかかわらず、相変わらず我々を"見て"いる、視線を注ぎ続けている、という事に似ているかもしれない。我々は仮に救われていたとしても、その救済に気づく事はいつまでもないだろう。
 
 詩人は一人の女を、静かな抑揚の中で歌い上げた。それは世界から零れ落ちていくもの、世界に入れなかったものであり、詩人はそんな存在を優しく、同時に激しい感情で包むように歌っている(途中で意図的に挟まれるノイズ音は、皮膚下の激情を表しているのだろう)。女は現実には救われなかったかもしれないが、その中にあるものはこの楽曲に一つの形態として封印された。
 
 その全ては、あくまでも歌うような、波のような、抑制された調子として響いてくる。涙は直接溢れてこない。我々が社会生活をしている時、普段行っている仏頂面の下に、静かな激情が隠れており、あるいは涙が潜在しており、そうした皮膚下の形態をも、この曲は歌いきっている。私にはそうした意味で、この曲は名曲だと感じる。波が寄せては返すような静かなリズムとメロディの下で、しかし確かに一人の人間として自分を生きなければならなかった、女の悲劇がそこに刻印されている。この曲は名曲の一つと言っていいかと思う

 ※「SAYONARA BABY BLUE」という楽曲は遊道よーよーさんのブロクで知りました。遊道よーよーさんに感謝します。

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