偽神から外れて ー具体と抽象ー

 小林秀雄は「美しい花がある。花の美しさというようなものはない。」と言った。小難しい事を言っているようだが、よく考えれば普通の事だ。
 
 小林秀雄が言いたかったのは、「花の美しさ」というような抽象的な「美」はないという事だ。しかし、美しい花はある。具体的な「花」という存在を越えて美があるわけではない。美はあくまでも具体的な花の中に見いだせるものだ。
 
 先日、「マインド・イズ・フラット」という脳科学の本を読んでいたら面白い事が書いてあった。あるチェスの名人がいて、彼は何百人と一斉にチェスを指した。彼はそのうちの一人とは引き分けで、あとの全員には勝ったそうである。
 
 チェスの名人にどうしてそんな芸当ができたのか。答えは簡単で、チェスの名人はこれまでに膨大な数のチェスを指してきた情報の蓄積があるので、チェスの盤面をぱっと見ただけで、どう指すべきかが瞬時にわかる。彼は巨大なデータ蓄積から、最善の手を一瞬で取り出す事ができたのだ。
 
 同じ本には、名人の別のエピソードも紹介されていた。チェスの名人が、「チェス必勝法」というような本を出した。だが、本にはチェスの必勝法というのはなんてものはどこにも書いていなかった。実際には、「必勝法」というような明確な「規則・方法」は存在せず、あったのはただ、各場面ごとにどう指せばいいかという、名人の具体的な解説でしかなかった。
 
 私は、小林秀雄の話とチェスの名人の話を繋げて書いたが、これらのエピソードでわかるのは、抽象的な「美」とか「方法」なんてものはこの世に存在しないという事である。ただ我々は具体的なものの積み重ねに対して、抽象的な用語を当てはめているだけなのだ。
 
 例えば、「芸術とは何か?」という問いに対する定式を人は求めようとする。この場合、まず芸術作品に相当数当たっている事が前提となる。当たる、とはぶつかる、つまり作品を鑑賞して、自分の頭で考え、自分の感覚を吟味する、というような事だ。
 
 以前に、人工知能学者が書いていた本を読んでいたら「絵画とはパターンだけど、もうそのパターンは出尽くしたから、絵画の発展は難しい」というような事を言っていた。私はこの学者が一体、どういう絵画を見て、「絵画とはパターン」だと判断したのか、疑問に思った。
 
 ゴッホの絵はパターンだろうか。北斎の絵はパターンだろうか。絵画がパターンだというのは、そもそもどういう事だろうか。あるいは、パターンであるならばパターンの数は限られていて、その数は使い尽くしたというのか。同じような構図の絵なら、それらは同パターンとみなされるのか。同パターンの絵なら、絵の価値は同じなのだろうか。わからない事ばかりだ。
 
 …もっとも、この手の書き手は、本気で芸術を定義するつもりなどないのだろうし、そもそも芸術に興味もなく、ただ商売の一環でそういうものに触れたというだけなのだから、本気で怒っても仕方ないが、しかし、芸術の本質とはなにかについて語りたければ、かなりの数の芸術に当たっていないと無理だろうと思う。それはチェスの名人と本質的には変わらない。
 
 しかし、無数のチェスを指してきたチェスの名人ですら、「チェスに絶対に勝つ方法」を編み出せなかったし、芸術作品を無数に見てきた玄人が、芸術の本質をズバリと指定できるかと言えばそれは怪しい。おそらくは、無理だろう。ただ、無理だろうが、そういう試みにはそれなりの価値があるとは言えるだけだろう。
 
 「マインド・イズ・フラット」という本で他に面白かったのは、コンピューターの成長についてだった。近頃、コンピューターの「ディープラーニング」というのが流行っているが、要するに、コンピューターに規定の知識を落とし込むより、実際に無数の経験をさせて、自分で判断させる方が遥かに効率よく成長する、という事らしい。
 
 「チェス必勝法」を教えるよりも、無数のチェスを指させていく。そちらの方が遥かに成長する。結局、ゼロから始めるものの方が遠くまで行けるのだ。コンピューターも人間もそのあたりの事情は変わらない。
 
 さて、ここまで書いてくると、私の言っているのは、「抽象的なものの批判、具体的なものの礼賛」という風に聞こえるかもしれない。しかし、実際には、「世界には具体的な個々の事物しか存在しない」というのも一つの抽象的な結論に過ぎない。
 
 それに、仮に世界から抽象的な法則を取り出す事が過ちだとしても、人間はそういうものを求めるのであり、そういうものを必要ともしている。
 
 この具体性と抽象性の解決法の一つが、この二つを切り離す事だ。イデア論におけるイデアと現実、カントにおける物自体と現象のように。絶対的に抽象的なものは世界を越えたところにあるのだが、それは人間には知り得ないものだ。こうしておけば、我々が抽象的なものの近似値しか得られない事にそれなりの納得ができる。
 
 完璧なチェスの指し方は存在する。完璧な美は存在する。しかし、それは我々には知り得ない。我々はそれらの影を、個々具体的なものの中に見る。一局のチェスや、一輪の花の中に。
 
 これは人間という種が考え出した、自分達が世界を認識しようとする方法をうまく世界の現実になじませる方法なのだろう。
 
 ※
 …ここまで書いてきて、私は別に、新しい方法論や提案を持ち出そうという気はない。
 
 ただ、現代で言えばあまりにも抽象的な方向への傾斜が激しいと感じている。世界がネットワークで繋がり、金銭は世界を滑らかに移動して…全てを抽象化して「一」にしようとする運動があまりにも激しい。
 
 これらの運動は、世界を単一の価値観に統一させようとするものだが、この価値観を受け入れる限りにおいては「多様性」は認められる。要するに、世界を絶対的に一つの神の下に置こうとする運動を各人が是認するのであれば、それぞれの人間の差異は「多様性」として保全してあげてもいい、というのがこの世界の言う「多様性」だ。
 
 カントの「物自体」もプラトンの「イデア」も現実世界から切り離された抽象物であったが、現代社会はそれを現実のものにしようとしている。しかし、そうした現実化は不可能だーー「花の美しさ」は存在しないし、「チェス必勝法」も存在しないのだから、そういう試みは究極的には欺瞞に終わるだろう。
 
 メディアに出てくるタレントらはそうした欺瞞を背負わされている。彼らは完全な人間を演じる事を強要されているが、実際にはそうではないので、絶えず彼らは、強制されたイメージから剥がれ落ちていく。

 現代の世界においては、メディアを中心とする絶対的な抽象性(「神」の模造)から、個々の事物を規定するという価値観が普通になっている。例えば、近所の定食屋が、テレビカメラに映し出され、紹介された途端、普遍的で意味があるものに見えてくる…というように。こうして個々の具体的な物は抽象性によって支配されるものとなっている。
 
 しかしこの抽象性は本物ではなく、偽物なのだから、いずれは崩れ去る神の幻像に過ぎない。そもそも絶対的な抽象は存在しない。どれだけ強い権威が、「芸術とは何か」を、科学的な定式として表したとしても、個々の芸術家も、芸術作品もその規定をはみ出して勝手に歩いていくのをやめないだろう。
 
 ※
 周囲を見渡せば、自分に自信のない人間ばかりだ。かと思えば、高慢な人物も沢山いて、彼らは世界の神と自分が合一していると勘違いしている。この抽象性に近づく事で誰しもが自己の価値が高められると思っているようだが、むしろ、それによって人は自己を失う。
 
 画家が世界を眺めて、絵を描く目と、芸術愛好家が、有名な画家の絵にしか興味を示さないという感受性のあり方は全く違うものだ。画家は、人々の目から漏れたありきたりなものに、世界の真の相貌を見る。誰しもが崇めているものにしか目をつけないのは凡庸人でしかない。
 
 世界の抽象に近づく事によって自分の価値を高めようとする芸術家は既に、自らの全てを世界に明け渡しているので、彼らの作品に彼らの魂が宿る事はない。彼らの作品は偽の神が滅びると共に滅びるだろう。
 
 花の美しさをまともに感じた事がない人間が、「美」という抽象概念についてぐちゃぐちゃと語る。芸術作品に素朴に感動した事がない人間が「芸術全般」を定義してみせる。これは現代に普通に見られる陰惨な事態だ。
 
 彼らの手には芸術は存在しないし、美も存在しない。だが、彼らの手にはたしかに、芸術の概念が存在し、美の概念も存在する。
 
 芸術や美の本質に「触れた」事から発せられた概念としての言葉と、そうしたものに「触れなかった」人が語る概念の言葉は、見分けるのが難しい。難しいから、美も芸術も趣味的にしか判断しない人達を一定期間騙す事はできる。言葉の裏側は簡単には見えないからだ。
 
 こうして一つの欺瞞が成立するが、それはどっしりとした確信を根底に据えていないので、やがては消え去っていく類のものだ。まず、我々は具体的ななにものかから始めなければならない。
 
 最終的に抽象にたどり着きそうな錯覚が自分に生じても、それは手の届かない場所に延期し続けなければならない。そうでなければ、現代社会が行っている欺瞞と同じ欺瞞に陥ってしまう。
 
 現代社会は根底的に、偽の神が支配した世界である。この神は、個々の事物から全てを抽出して、メディアによって全てを価値化し、序列を決定したように見えるが、実際には世界は「世界」からはみ出して存在する。
 
 それを実感するにはまず、自己が「自己」とならなければならない。世界から剥がれ落ち、虚しく寂しい自分の存在の中に確たる実質を認めなければならない。それは自分が生きている事であり、また死ぬ事が可能であるという自由性についての認識だ。
 
 ここに「生」があるが、これはメディアに吸収されるものではない。それは誰も見ようとしない野辺の一輪の花が存在しているように存在しているものであり、人はこの存在を自ら気づいて、自己という具体物から事を始めるしかない。
 
 これは可視化されず、序列化されてもいないが、ミクロなものとして、というより、それが世界に吸収されていないミクロなものであるが故に、自らを生きられるような、そういう存在だ。
 
 そうした存在に根拠を置くのでなければ、世界に蔓延している知識を手早く脳にインストールして、世界が滅亡してゆくのと共に緩やかに滅亡していくだけの事であろう。その道程においては大いにはしゃぎはするだろうが。

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