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若い頃の過ち

 自分が昔に書いた文章を読み返していたら、文章の最後でスティーヴ・ジョブズの言葉が引用されていた。今の自分なら絶対にやらない事だ。
 
 現時点での私はスティーヴ・ジョブズとかイチローとか、誰でもいいが現代のヒーローやスターにほとんど興味を持っていない。大谷翔平なんかも野球の歴史には残っても、真の意味で歴史に残る事はないだろう、と見ている。
 
 そんな風にして、自分自身の考え方も変わってきている。私自身は成長していると自負しているが、現代の大衆的感性に近いのは昔の自分なので、大方の読者からは昔の自分の方が好ましいだろうと思う。
 
 例えば、昔の自分は「〇〇さんは△△だから成功したんだよ」のような事を言っていた。こういう言い方というのは「成功」というものに価値を置いた考え方だ。
 
 今の私はこんな言い方はしない。昔の私は間違っていた、と思っている。
 
 もちろん、こういう言い方は現代の多くの人がしている言い方だ。だから、私は私なりに現代の通俗的価値観から離れる為に努力してきた、という事にはなるだろう。
 
 どうしてこういう言い方に問題があるかと言えば、人間の生の諸相というのはそんなに単純なものではないからだ。現実、歴史の複雑性を見た上で、それらを抽象的に把握しようとすると、勢い、そうした言語それ自体も複雑になる。
 
 わかりやすいところで言えば、成功か失敗かで人を判断するなら、イエス・キリストは最悪の人間だという事になる。彼は最も苦痛の多い仕方で処刑された犯罪者だった。ソクラテスも犯罪者として処刑されたわけで、その反対に、歴史の上では悪魔のように振る舞ったスターリンや毛沢東は、神の如く跪拝されつつ死に至った。成功か失敗かで人の価値は測れない。
 
 人間の価値はそう簡単に測れない。それ故に、人間の価値を測量しようとする言語それ自体も複雑なものになっていく。それは当然の事だ。それを「もっとわかりやすく」といくら言われたところで、言葉は歪められても、現実、歴史、過去は歪められない。
 
 例えば、私は大学生時代、講師に次のような事を言われた。
 
 「自分の名前を汚く書いている奴は絶対に売れない」
 
 私はその当時から、この言葉を疑っていたが、今ではこの判断は間違っているとはっきり言える。一つ目の間違いは自分の名前を汚く書く人間だからといって売れないと決まったわけではないという事。二つ目の間違いは売れるか売れないかを価値基準に置いている事だ。
 
 人は人を判断するから、こうしたいい加減な言葉はどこを見てもごろごろと出てくる。しかし、人間はそうした言葉に反して、勝手に自らの生の諸相を様々な方向に拡大させていく。
 
 天才がみんな、品行方正だったらわかりやすいだろうが、そんな事はない。歪んだ性格の天才もいれば、真っ当な性格の天才もいる。色々いる。
 
 人間にしろ、歴史にしろ、現実にしろ、それらは実に様々なパースペクティブを含んでいる。絶対確実だと思っていた予測が外れる。次々と予測は外れて、若い頃に持っていた物差しは捨てられる。そうして物差しは次から次へと変わっていく。
 
 だが、いくら変わっても、物差しを捨てる事はできない。人は自らの論理や抽象によって世界を測る以外に、世界を認識する方法を持たないからだ。この物差しは成長していくが、単純な物差しを欲する人にはわけがわからない代物になっていく。
 
 私にはシェイクスピアの諸作品は宇宙のように広大に感じる。シェイクスピアは自らの作品の内部で、どのような論理的結論も出していないように思える。だが、それは論理的結論という物差しで測れない世界の諸相をそのまま作品に映し出している為ではないか。
 
 若い頃の過ちというのは、私にとっては、世界を測る物差しが間違っていたという事だ。あれから時が経って、物差しは少しは成長しただろうか? …少なくとも、はっきり言える事は今の私はスティーヴ・ジョブズを肯定的に引用する事は決してないだろうし、現代のヒーローやスターを無条件に褒め称える事は決してないだろう、という事だ。現代社会は大方、古代ローマとよく似ていると私は考えている。
 
 古代ローマは建設業が盛んだった。古代ローマは物質的な社会だったわけで、文化的な生産性は古代ギリシアに比べれば低かった。物質社会における隆盛の結果として称賛されるような様々なものは歴史的価値に乏しいと私は考えている。
 
 だから私は現代社会の潮流とそのまま同衾したりしない。それよりは、当時のローマにぶつくさと文句を垂れていた風刺詩人ユウェナリスの立場を取る方がまだマシだろうと思う。ただ、古代ローマにユウェナリスはいても、ソフォクレスやプラトンのような偉大な文化人は存在しなかった。そうした人が登場する時代ではなかった。
 
 これは現代でもそうで、そうした偉大な人物が社会の中の生まれるのは難しいだろうと今の私は見ている。文化というものも社会や歴史との共同で発生する。歴史の助力がない時代において、個人レベルでどこまでやれるのかは、相当に難しい問題だろうと思う。

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