見出し画像

もし「痛み」という哲学があったら

 もし「痛み」という哲学があったら、と考えてみよう。
 
 「痛い」という哲学が存在する。「痛み」とは何か。それについて色々な議論が可能だが、それを理解するのにもっとも簡単な方法は、誰かに腕をペンでつついてもらう事だろう。
 
 「いてっ」 彼はそう言って、「痛み」を理解するだろう。「痛み」とは何かがわかるだろう。私は、『わかる』とはそういう、随分わかりやすい事ではないかと思っている。
 
 別の例では、ヘレン・ケラーがはじめて「water/水」を理解した場合が思い浮かぶ。
 
 ヘレン・ケラーと言えば「目が見えない」「耳が聞こえない」「話せない」という三重苦を身に背負った人だ。ヘレン・ケラーの家庭教師だったサリバン先生は、そんなヘレンに言葉を教えようとした。
 
 サリバンはヘレンに言葉を教えていったが、基本的な単語、「water」をどうしてもうまく教えられない。そこでサリバンは、井戸の水を汲み、ヘレンの片方の手に冷たい水を浸し、もう片方の手に「water」と指で書いてみせた。ヘレンはそこではじめて「water」という言葉を理解できた。
 
 その時、ヘレン・ケラーは「魂が解き放たれた」と感じたと言う。
 
 ここで、ヘレン・ケラーが「わかった」のは水とは何か、という事だ。「water」とは手のひらを流れるさらさらと冷たい、心地よいあるものである事が「わかった」のである。
 
 『わかる』とはこういう、随分単純な事ではないかと私は近頃思っている。「water」という言葉について灰色の概念をいくらでも積み重ねる事は可能だ。「water」というものに対して、概念を積み重ねて一つの哲学を作り上げる事すらできるだろう。
 
 だがその根底にあるのは「water」がさらさらと流れる冷たい水であるという事、そして、人間という種がそれをそのように感受できる存在だという事だ。この事実がなければ、いくら概念を積み重ねたとしても、「water/水」という概念は中身の抜けた、灰色の観念に堕してしまうだろう。
 
 「痛み」という哲学も同じ事だ。例えば「痛み」というものが全くわからない、経験した事がない人が、「痛み」について様々に語る事はできる。うんちくを語る事はできるし、痛みが発生する科学的プロセスも述べる事ができる。「痛み」を一度も経験した事がなくても、「痛み」という哲学の専門家になる事だってできる。
 
 だが、彼の言葉には、何かが抜け落ちているのではないか。彼はそもそも、「痛み」というものがわかっていないのではないか。
 
 しかし、彼が「痛み」がわかっているかいないかというのは、彼のテキストを読んで、その「背後」を洞察しないと決してわからない。痛みとはあくまでも個人的な感覚だからだ。彼が痛みを経験した上で、痛みについて述べているのか、それとも知らないままに述べているのか、それを見極めるのは普通考えられているよりも難しい。
 
 さて、私がどうしてこんな突拍子もない話をここまで語ってきたかというと、現実においても、この手の問題は沢山転がっていると思うからだ。
 
 先日、私はある研究者の哲学の解説本を読んでいて、研究者の立ち位置に疑問を感じた。その哲学者の解説をしていたら長くなるので省略するが、要するに、私はその研究者は、研究対象の哲学者の事が「わかっていない」のに、その哲学の話をしているようにしか思えなかった。
 
 こういう事は実際、よくある。私は自分が無知なジャンルにおいては、人に頻繁に質問する。私より相手の方がよく知っていると思うからだ。
 
 最初はふんふん、とうなずいて聞いているのだが、やり取りをするうちにどうも疑問を感じる事がある。相手は、話されている話題については相当詳しいはずだが、話す事が一般的な知識の羅列をどうしても越えてこないのである。
 
 その人は、「〇〇さんはこう言っています」とか「それは間違っています。ここはこういう解釈が普通です」などと色々言ってくれるのだが、しかし、根源的に『あなた』が対象をどう捉えたのかというその像がどうしても見えてこないのである。
 
 こういう事はよくあって、無意識的な権威主義者は大抵、これにあたっている。こうした人は自分の意見や考えを述べようとせず、既に出ている権威ある答えを持ち出す事によって、自分の優越を示そうとしてくる。虎の威を借る狐だ。
 
 私が聞きたいのは、言ってみれば、ヘレン・ケラーがはじめて「水」に触れたように、あなたがその対象にどう触れたのか、その時、どう感じたのか、それが一体何だったのか、という事である。しかしこれに対して確たる回答を持っている人は非常に少ない。
 
 ※
 しかし、先に言ったように、「痛み」を経験した事がなくても、「痛み」の専門家になる事は可能である。「痛み」が哲学であるとするなら、一度も痛みを経験した事がなくても、「痛み」についての無数の知識を持つ事によって専門家になる事は可能だ。
 
 そしてこのような書き手、研究者が、素人相手に入門書を書く事も可能だ。「痛み」とは何かを知りたい、という読者がいると考えてみよう。読者は「痛み」というものがわからない。それに対して専門家が色々な説明をする。「痛み」とはどういうものか、微に入り細に入り、述べていく。
 
 それを読んで、読者は「痛み」についてわかったような気がする。概念だけは頭の中に蓄積されていくので、ぼんやりわかった気がする。しかし、この両者の関係において「痛み」という感覚は全く抜け落ちている。「痛み」それ自体は全く共有されていない。
 
 「痛み」という例を持ち出すと、上記のような単純な図式になるわけだが、こうした事は現実に起こっていると私は思う。アマゾンのレビューを見ると、そういう人が多いと感じる。
 
 もちろん、「痛み」という単純な感覚なら、その感覚については、たった一つの像に集約してもそれほど問題ないだろう。全ての人間が、「痛み」という感覚についてする想定は、似通ったものになってくるだろうから。
 
 中には「痛みとは快感だ」というような人もいるだろうが、そうした場合でも、限度を越えた極度の痛みはおそらく苦痛だと感じるだろう。
 
 しかし、先にあげたように、ある哲学をその人がどう捉えたか、という問題は痛みの問題よりももっと複雑である。だから解釈が様々に異なるのも仕方ない。
 
 ただ、私が疑問なのは、その対象に対してはっきりと「触れた」「わかった」という感覚がないままに、その対象についての言葉、概念を積み重ねて人に語り、しかもそういうものを聞いて「ああ、わかった」と言いつつ、実際には全く腑に落ちていない、そういう関係があまりに一般化しているのではないか、という事だ。
 
 「わかる」とはヘレン・ケラーがはじめて「water」を理解したような、あるいはアルキメデスが「エウレカ!」と叫んで風呂から飛び出したような、そういう感覚なのではないかと思う。
 
 だから言葉も、実質的には人間の感覚に支えられており、その感覚というのはその人間の知性や、資質、そうした人間性全体と結びついているが故に、大きな意味が生まれてくるのだろうと思う。そうした言葉にはその背後に、人間全体が振動したようなある直覚が秘められている。
 
 私は「哲学」のような頭脳的なものであっても、その根底に根源的な直覚がなければ大した価値はないのではないかと考えている。灰色の概念の上にいくら灰色の概念を積み重ねても、自らの中の根源的な感覚に触れる事を決してした事のない人々の言葉というものは、私には参考にはなっても信用はできない。
 
 そういうものは言葉に伴う根源的な直覚を欠いており、そうしたものはその人間の全体性と結びついた大きな意味を持たないので、言葉としての豊かさに欠けている。
 
 以上、「痛み」というものを哲学にしてみたら、という単純な例で考えてみた。私は私よりも「わかっている」人と話してもどうしても納得できない事が多々あった。それというのは、彼らの知っているは「痛み」の観念であって、「痛み」そのものではない、というような事ではないかと思う。
 
 この場合、痛みが快感であると主張する人と、痛みとは苦痛であると主張する人がいるとしたら、両者は共に「痛み」を経験した上での議論なわけだが、痛みを経験していない人もこの議論にいくらでも加わる事はできる。しかし、そこには微妙な差異があるのではないかと思う。
 
 頭脳的な事柄と思われている学問や哲学も、根源的にその人間の全体性と結びついた直覚が基礎にあるからこそ、歴史に残るほどの大きな価値を持つのだろうと私は思う。この直覚を欠いた言葉は、それほど豊かな意味を持ち得ないのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?