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川べりを歩いて「自然」を考えた

 自然はそれ自体として成立している。国家に何兆円借金があろうとなかろうと、自然はそれ自体として進んでいく。
 
 本来的には人間は自然の一部だったが、今やそれを忘れてしまったようだ。自然は美しいものだが、同時に僕らを脅かすものでもある。
 
 しかし、自然というものはーー例えば、初雪を愛でるというような、昔の人間の感性に現れたものと、彼らを死に追いやった自然の峻厳性…例えば「病気」のようなものは、果たして同じ「自然」に属したのだろうか。
 
 だが、こうして書いていて、私はある間違いを犯している。私は、「自然」という言葉に様々な意味を集中させている。きっと、昔の人々にとって、眺められ、愛された自然と、彼らを死に追いやった自然とは違った存在であっただろう。それらをどうしても統一的に考える必要はない。
 
 もし全てを統一させようとすると、先程、私が「自然」という概念に対して記述した際に起こったように、内部に矛盾が生じてくる。意味の矛盾ーー言葉は本質を目指すほどに、自らの中に矛盾を孕むようになる。
 
 そしておそらくは、マルクス・ガブリエルが『なぜ世界は存在しないのか』で言おうとしていたように、最大の言葉ーー「宇宙」「神」「真理」「本質」といった言葉たちは、自らの中にあらゆる矛盾を抱え込むが故に崩壊してしまうのだろう。こうして世界は言葉では括る事ができなくなる。言葉という風呂敷は壊れ、世界は散り散りになって、各人の、各存在の、手のひらの内に戻ってくる。
 
 ※
 この文章のはじめに戻ってみよう。
 
 私が書いた最初の一文は次のようなものだ。
 
 「自然はそれ自体として成立している。国家に何兆円借金があろうとなかろうと、自然はそれ自体として進んでいく」
 
 これは、私が近所の川べりを散歩していて考えた。
 
 その時の私には緩やかな川の流れが見えていた。畑が見え、枯れた木が見えていた。この枯れた木々は決して死んでいるわけではなく、やがて春になったら復活するのだななどと私は考えていた。
 
 これら全ての連関は、私達人間が、ごちゃごちゃと論議している様々な事柄、政治であるとか経済であるとか芸術であるとか、そうしたものとは無関係に進んでいくのだろう。そんな風に私は思っていた。
 
 その時の私には少なくとも、実際の川や木、畑の土が見えていた。しかし家に帰って、こうして文章を書いている私はそれらを省いてしまった。それら全てを「自然」という一語に集約させてしまった。
 
 それによって失われたものは果たしてなかっただろうか。「自然」というたった一つの語に果たして、木々や川や土は収納可能だろうか。
 
 こんな事を考えていると、頭の中に、私が実際に川べりで歩いていた道の風景が浮かんでくる。だが、そうして思い浮かべられた風景は実際の風景とは違うものだ。今この時、その風景がどうなっているのかはわからない。
 
 今この時(今とは2024年2月9日の深夜だが)、実際にその風景がどうであるのか、想像してみる事はできる。今は夜だから風景は闇に包まれているだろう。
 
 しかしその風景が仮に、私が想像しているものと寸分違わず一緒だとしても、私のそれはあくまでも「想像」であるに過ぎない。実際の風景とは違うものだ。
 
 …というより、闇に包まれた風景というイメージそのものが、人間として視聴覚に縛られた私の主観的なものに過ぎない。私は人間という種の限界を持ち、更には「私」という存在に縛られている。私は私の主観から世界を想像してみる。だがそれは私の内部にあるものに過ぎない。
 
 …とはいえ、私もまた、木々の一つや、雲の予測できない変化のように、一つの存在としてこの世界で生きている。というのは、私もまた自然の一部であるからだ。
 
 私は私の認識から逃れさって生きている。また、世界が私に課した様々なレッテル、認識、理解、本質、そうしたものから逸脱して生きている。
 
 それが私が生きているという事であり、また、私が見た風景が私の手に負えず、「そういうもの」として存在し、存在し続ける、という事なのだろう。
 
 そんな風に私は思う。
 
 ところで、「自然」という言葉はこの文章ではどういう風に使われただろうか? 私はそれを自分にとって便利な風呂敷のような「符牒」として使った。
 
 だが、あなたも知っているように、実際の自然はそれよりもーー私が使った概念としての「自然」なんかよりもーー遥かに巨大に、そこからはみだして存在している。おそらく、あなたは私よりもその事実を深く知っているはずだ。

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