ハネケ「ファニーゲーム」 感想

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 ハネケの「ファニーゲーム」を見ました。
 
 この映画は鬱……もとい、家族で、カップルで楽しめる「ファニー」な映画なので、ぜひみなさん、誰かと一緒にリビングで見てください。「ファニーなゲーム」が展開される、ハネケ師匠の鬱……もとい、素晴らしさ・愉快さが全開の作品なので、万人におすすめです! 友達や恋人、家族と一緒に、『最後まで』見ましょう!
 
 
 
 えー、という事で、最強の鬱映画である「ファニーゲーム」を見ました。
 
 見ている時の感覚はサドの小説を読んでいた感じに近い。自分は芸術家だから(そういう事にしておこう)、こういうものも見ておかなくてはならない、だけど見たくはない、全然見たくはない!という矛盾した感情の中で見ました。
 
 お話としては、白い服を着た兄ちゃん二人が、別荘でくつろぐ家族三人に因縁をつけ、拘束し、なぶり殺すという、ただそれだけです。ものすごく嫌味な若造二人がお金持ちの親切そうな一家をなぶり殺します。夫、妻、息子の構成ですが、最終的には三人とも殺されます。誰も助かりません。
 
 ストーリーとしては、本当にそれだけなのですが、見ていて辛いのが、なぶり殺すシーンが異様にリアルで、実際にそういう猟奇的事件は存在しますし、(もし自分がこんな目にあったら、こんな感じなんだろうな)とつい、イメージしてしまうところです。そうです。こうした事件は現実に起きているというのが、映画の怖さと二重に僕たちを襲ってきて、なおかつ、現実でも映画でも、ピンチの時に誰も助けてくれません。被害者家族三人は不利な状況を覆せない。
 
 家族も抵抗するのですが、徒労に終わります。三人共無残に殺される。そうしてこれは現実にありえますし、ヒーロー物のように誰かがタイミングよく助けてくれる方が稀でしょう。現実の気味悪さを映画を通じてまざまざと見せられる、嫌な映画です。
 
 しかし、ただ嫌な映画というだけでもない。ハネケの非凡性を感じたのは、次のような点にあります。
 
 秀逸だと思うのは、家族三人を襲う若い男二人が、滅茶苦茶嫌味な奴で、妙に丁寧な言葉づかいで、挑発して絡んでくるのですが、そのねっとり感が(こんな奴いそうだな)という感じです。ここはリアルです。しかし、記号的な部分もあります。
 
 特徴的なのが、この二人が何故この家族を襲うのか、その動機は示されないのです。示されないだけではなく、作中で、A「お前、なんでこんな事やるんだよ?」 B「さあ~」 みたいな会話があって、この点も露悪的に見せてくるわけです。
 
 何故、この二人が家族三人を襲うのか、その理由はわからない。金、セックス、野心、怨念など、普通は動機があります。しかしここではわざと動機を欠けさせています。ここにハネケの特徴があります。ハネケはカフカの「城」を映画化したそうですが、カフカも、理不尽さの根拠を明かさないという特徴がありました。「変身」で主人公が虫になるのは原因がわからない。ハネケとの類似性があります。
 
 更に印象的なのは、悪党二人は白い服を着ています。二人とも白い服で、主犯の痩せっぽちは上下白です。これらの事は意図されていたと思います。というのは見ているうち、この悪人二人は現実の存在ではないような、言ってみれば白い服を着て外界に降りてきた意地悪な天使のようにも見えるのです。傲慢な人間に生の理不尽さを教える為に天界から降りてきた天使(=悪魔)にも見えてきます。
 
 ここからは僕の推測ですが、ハネケという人の根底には「神の不在」という概念があるのではないかと思います。というのは、仮にこういうテーマで、露悪的に見せるにしても、「ファニーゲーム」という映画はあまりにも「やりすぎ」なのです。あまりにも露悪的な表情が突き抜けており、暴力がこの世にあるのを見せるにしても、どこかしら突き抜けたものを感じます。
 
 今から言うのは主観的な論ですが、僕は、サドの小説にも同じような突き抜け具合を感じます。やりすぎだろ!ってな感じです。日本ー東洋のラインから、絶対的な神がいるとかいないとかいう概念は消して考えてみます。今の世の感じで言えば「快楽殺人」のようなものがある、あるとされています。また、自分の性欲を満たす為に他人を奴隷にしたり、殺したりというのもあるでしょう。ただ、そういうエゴイズムの発露としての悪ではなく、ハネケの「やりすぎ感」というのは、もっと突き抜けているという印象を持っています。
 
 我が国の文豪である夏目漱石は「殺人」は取り扱いませんでした。問題になったのは「自殺」で「他殺」ではありません。日本の作家が「殺人」をテーマにしても、快楽殺人、猟奇殺人をテーマにしても、「そういう異常な人」という以上の扱い方はほとんどできていないという印象を持っています。これに反して、上に上げたようなサドやハネケは悪を描くにしても、「単にそういう奴がいる」という以上の、悪に対する信念のようなものすら感じます。これは日本とかアジアでは考えにくいものではないかと思っています。
 
 それはなんでしょうか。最近、そういう事を考えるようになったのですが、そこにあるのは「涜神」だと思います。神を汚す、あるいは神がいなければ、いないのを証明するというような論理で、殺人や悪が肯定されます。つまり、単なるエゴイズムとして、そうだから、そうしたいからではなく、もっと高次な理念を上に背負っている為に、一旦そういう方向に走れば、とてつもなく恐ろしい事になります。

 ですが、その逆の神を信じるという方向を突き抜ければ、極めて崇高になものにもなりえます。神という概念は同時に、とてつもなく崇高な、偉大なものと、とてつもなく凶悪なものを発生させたのではないかと自分はイメージしています。
 
 「ファニーゲーム」に戻ると、悪人が散々、家族をいたぶってから殺すというのも、そういう悪の肯定があるという風に感じます。彼らは、悪を証明する為にこの世に存在している、概念的なものというか、不可思議なものです。彼らは実際的な動機がありません。彼らはただ悪に邁進し、人間を破壊するのを目標としているのですが、この奥には神の不在という西洋的なものがあるのではないかと思っています。
 
 悪党は最初、奥さんの方に「卵切らしちゃったんで、余ってたらください」という、まあご近所付き合いでありそうな会話から入ってきます。そこから徐々に因縁をつけて、拘束し、嬲った後殺します。
 
 作品の最後では、また二人が別の家に行き、「卵余ってたらください」とお願いします。ここはループ構造になっています。この間、この二人は作中でずっと嬲り殺しをやっているので、休む暇もありません。悪党二人には生活というものが欠けています。完全に別の世界から来た人間のような感じです。
 
 おそらく、同じようなテーマで他の監督が撮ったとしても、悪人をこういう風には描かなかったと思います。ここにハネケの特徴があると共に、おそらくは西洋の歴史の裏面、例えば、ヘーゲルやカントのような理性・精神の崇高さを謳い上げる裏側で、サドのようなとてつもなく強烈な、ただ情欲だけではなく、神に背くのが己の神となった、そういう反ー理想があるような気がします。
 
 そういう神の不在、神に対する反抗、その実現としての悪を、ハネケという人は非常に現代的な形で体現しています。友人のハネケ論を見てなるほどと思ったのですが、ハネケにはキリスト教的原罪という意識があります。これは、先進国の人間が自覚なく、反省無く豊かさを享受しているという「悪」の形ででてきます。「ファニーゲーム」で無残に殺されるのはブルジョアです。彼らは、自覚なく罪を背負っている現代人という見方をされているのでしょう。
 
 しかし、そういう現代人を嬲り殺して、それだけで作品は終わります。それ以上、作品の倫理というのは続いていきません。カフカもまた、生の理不尽さと、己が憐れまれるべき存在だという事を示して、そこから神のようなより高い場所へは行きませんでした。別に神に行かなくてもいいですが、何らかの形で、現実の理不尽さを超えるものを用意しないと、作品は露悪的に流れます。ハネケの作品には理想はないわけではないですが、基本的には露悪に終始しています。
 
 最も、ドストエフスキーは「神に一番近いのは無神論」だと言っており、そういう見方をすると、ハネケとかミシェル・ウエルベックのようなニヒリスト、露悪主義というのは、平凡に自分を肯定している人よりも思想的には一段高い所に行こうとしている人達だと見る事ができるでしょう。(コンテンツとして言えば、ただ大衆消費として作ったり見たりしているよりも一段高い場所を目指している) そういう見方をすれば、ハネケの作品にも大きな意味が出てくるかと思います。
 
 ただ、ハネケその人は、現実の醜さを我々に示して終わりなので、その後の倫理は我々が自分達で作っていく必要がある。なんにせよ「ファニーゲーム」は見る価値はある映画と思います。そうして、見る価値があるという事は必ずしも、楽しいものだという事と一致しません。これは人生にも言えるかと思いますが、そこまで言い切ると非難されそうなのでやめておきましょう。いずれにせよ、ハネケという人は瞠目すべき異様な監督であるというのは間違いないでしょう。
 
 
 (ブログ「詩論」の中のハネケ論を参考にさせていただきました 
 「詩論 ハネケ」で検索すると出てきます 非常に優れた論なので興味があればどうぞ)
 
 

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