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社会的解決としての「愚かさ」

 テレビでは健康食品のコマーシャルがよく流れている。七十代でもまだ元気、八十代でもまだ元気。いつまでも元気でいられるような、体に良い健康食品がやたら宣伝されている。
 
 先日、テレビを見ていたら老後にはいくらぐらい金が必要かというのを、専門家が教えていた。この専門家というのは金融のプロだそうだ。
 
 あるいは、医者は、人間の身体を良くするようなアドバイスをくれたり、薬をくれたり、そういう施術をしたりしてくれる。
 
 更に例を出すなら、最近では「終活」なんていうのも言われるようになった。死ぬ前の身辺整理の事らしい。終活の為のあれこれもテレビで宣伝するようになった。
 
 さて、ざっと例を出してみたが、これら全てをあわせてみても、私には根本的な人生の問題に対する解決というのがさっぱり見えてこない。私という個人は、生きて死ぬ身である。
 
 宗教は理性によって否定され、神は死んだ。あの世は古い迷信でしかない。人間とはただの物質であり、死んだら灰になって終わり。だとすれば、今、生きている私という存在は果たして何なのだろうか。
 
 これに対して、様々な処方箋や、アドバイスをくれる人達がいる。自己啓発を勧めてくれる人もいれば、何かに没頭するのを勧めてくれる人もいる。私からすればそれらは全て過去のものだ。それらは私がかつて捨てた物であり、人々が私に推薦するのは、私の精神を過去に帰し、愚かさの中に留まり続けろという事でしかない。
 
 確かに、この社会において、社会的解決として実践されているのは、我々が愚かさに留まり続ける事だ。愚かであるというのは、社会が要請する解決法として実践されているのだ。
 
 人が生きて死ぬ事。これらが理性によって分析され、もはや神もいなければあの世もないとすると、ただ孤立した個人がバラバラに存在して、その個人は死ねば何もない、という事になる。家族がいて、子供がいたところで、家族も子供も究極的には他人でしかないし、彼らだって死ねばただの無機物へと転換されるだけだ。世界には意味がなく、人生にも意味はない。全てがいずれ物質に還るのであれば、この人生に何の意味があるのか。
 
 私はこの問いに、誰かに答えて欲しいとは少しも思っていない。ただこの問いを考える事を許されない社会の状態について語りたいだけだ。
 
 最初に挙げた例を振り返れば、健康食品や筋肉トレーニングが身体に良いとは言えても、不老不死を与えるわけではない。いずれは我々は老いて死ななければならない。医学が我々に与える貢献も同じ事で、やはり我々は死ななければならないわけだ。
 
 だが、この究極的な問題について誰も答えようとはしない。いや、答えようとはしない、というより、考えようとしない。
 
 健康食品を摂取すれば身体が相対的に良くなる、という事柄を、人生の絶対的問題に対する応答のように見せかける事。要するに、相対的、部分的でしかない事柄をあたかも絶対的な、人生の問題に対する処方箋のように見せかける事に、この社会が行っている欺瞞がある。
 
 我々がいくらいい医者に巡り合おうが、いくら良い健康食品を取ろうが、我々が生きて死ななければならないという問題を解決する事はない。しかしこういう絶対的な問題について思考を麻痺して、相対的な面白さ・楽しさ・心地よさに浸りながら、知らないうちに死んでいくというのがこの社会で実際に行われている事だ。
 
 老後にいくら金が必要なのかを計算する金融のプロは、人生のプロではないだろう。人生とは何か、人の生き死にとは何かがわかっているのではないだろう。同様に、どれだけ優秀な医者がいたところで、死とは何かをわかっているわけではない。医者は生についても死についても知らない。ただ医者は身体としての人間を存続させようとしているだけだ。
 
 彼らに究極的な問題を聞いても無駄なのだ。無駄なのにも関わらず、メディアがやっている事は彼らから答えを引き出してくる事だ。正義の問題は法律の問題にすり替えられ、死の問題は医学の問題にすり替えられる。人生の価値観の問題は、金銭という数量の問題にすり替えられる。何一つまともな答え、というより、思考は存在しない。あるのはただ唯物的に、死んだ砂漠のように無味乾燥な世界だけだ。
 
 私が述べているような事は、かつてであれば文学者や哲学者、宗教家が答えようとする事柄だった。しかしこれらの人達も唯物論的潮流に流されて、本質的な事について考えられなくなっている。また、個人的に考えたところで、社会的支援や広がりがない孤独な活動にならざるを得ない。
 
 今の社会とはそんな有様だ。個別的な小さな事柄については無数の賢者があれこれと答えを教えてくれるが、大切な問題については答えを教えてくれるどころか、それについて考えない事を推奨される始末だ。それらはもはやタブーとなっている。
 
 残念ながら、部分を足しても全体にはならない。部分の総和は全体とはならない。ジグソーパズルのピースのようなもので、全体像が見えれば、ピースを当てはめていくのは容易だが、全体像が見えず、ばらばらのピースだけ与えられてもどうしようもないのだ。そして我々はみな、全体像を失ったばらばらのピースなのだ。
 
 そのように個別的な部分的存在が、それぞれの主観的感情でくっつきあっても、その関係というのは極めて脆弱である。全てがばらばらの個人であるなら、それらをいくら強く結びつけても、弱い繋がりにしかならない。それぞれの個人の主観それ自体はこの社会においては至上の価値とされているが、それが一体「何」に結びつくか、「何」を生み出す部分であるのか、というのは全くわからない。
 
 この社会はそういうものになっている。出会い系アプリがあり、健康食品があり、スマホゲームがあり、そのほかにも無限に色々なものがあるだろうが、それら無限の部分がいくら山積しても、全体が存在しないので、繋ぎ合わせようがない。
 
 我々は、部分としての自己を自分で眺めると本質的に空虚であるわけだが、これに対する社会が我々に与える唯一の解決は「考えない事」でしかない。我々は部分に没頭して、全体について考える事を拒否されている(「時間」として考えれば、瞬間だけがあり、時間の累積としての意味は存在しない)。

 こうした社会においては愚かである事、本質的な問題については考えない事だけが唯一の解答であって、瞬間瞬間で騒いで時を忘れる事、それ以外には処方箋は持っていない。
 
 そうして知らないうちに老いと死がやってきても、人はそれを見ないようにするか、形式的に処理して、それ以上は踏み込まない。この社会にはそれ以外のものは存在しないので、あまりにも空虚であるこの社会はその空虚性を指摘する事も禁じられているので、自らの洗脳に成功した人間には、世界は素晴らしいもので充満しているかのような印象を受けるのだ。

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