ハネケのアンチ・フィクションについて

 ハネケという人は変わった監督である。ヨーロッパのインテリ意地悪爺さん、といった雰囲気がある。もっとも、その意地悪に意味があるから、彼は芸術家として優れているわけだ。私はその攻撃的な姿勢が気に入っているが、それは、現在においては強いられた風貌であるとも思う。馬鹿げた大衆文化の繁茂の中でまともであろうとすれば、攻撃的になりつつ身を守るしかない。
 
 「ハッピーエンド」という映画の中で、こういう台詞がある。正確には覚えていないが次のようなものだった。ある老人が言う。
 
 「自分は庭で大きな鳥が小さな鳥を殺して食べるのを見た。もしテレビで見ていたら、食物連鎖なのだと納得できただろうが、自分の目で見た時、恐ろしかった。本当に恐ろしく感じた」
 
 この台詞にハネケの哲学は詰まっている。例えば、「ファニーゲーム」という視聴者への嫌がらせ作品は、上記の台詞の通りにできている。
 
 「ファニーゲーム」というのは普通の映画手法を逆手に取った作品である。ある金持ちの一家が、にやにやした二人の青年にじわじわと拷問を受け、殺されてしまう、というだけの話だ。見ていてカタルシスがまるでない。
 
 これは監督の意図した事で、見ている人は習性上、この監禁されている三人がいつか反撃するだろうと期待して見ている。ハネケも途中までその期待に答えるような素振りを見せるが、実際、その試みは全てうまくいかず、ただただ家族は無残に殺される。
 
 おそらく現実に存在する一家惨殺事件のようなものはこんなものだろう、という気もする。しかし、ハネケはそういう事件をドキュメンタリーチックに描くよりも更に一歩進んで、通俗映画に馴れた我々の義眼自体に対して、事実を突きつけるように描いている。ここにハネケの独自性がある。
 
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 ここで立ち止まって、リアリズム、リアリティというものについて簡単に考えてみたい。
 
 例えばフローベールは写実主義を確立した、という風になっているが、実際その作品、「ボヴァリー夫人」を読むと、写実された現実の過酷さと対比するように、女主人公エンマの抱いている幻想性も活写されている。この相対的な、両極が一つの作品に見事に融合されているからこそ「ボヴァリー夫人」は素晴らしい作品と言える。ただ現実を描くだけならは価値は下がっただろう。
 
 また、もっと、「ただの現実」などは存在しない、各々が抱いた幻想を現実だと言っているに過ぎない、という風にも言える。こう言うと科学の実在性について言ってくる輩がいるが、君が見ている目盛りが正しいと君の目自体が証明してくれる事はない、という風に答えよう。目盛りは客観性があるという前提の元に科学は成り立つ。もし目盛りを常に間違って読む人間がいれば、この人物を科学は疎外する。しかしそうして疎外された人間も現実世界にいる一人という事には変わりない。
 
 リアリズムとはしたがって、現実を映し出すある角度であるという風に言える。それではそのリアリズムとは一体どうなっているか。
 
 例えば、自分がよく取り上げる川上弘美などは少女漫画的である。その先輩である村上春樹が既に、現実をリアリズムで描くような顔をしつつ、空想性を混入させて昇華させるという方法を発明した。だから村上春樹の小説にはサブカル的な匂いがしている。これはカフカにはない事だ。
 
 現実を漫画的に描いて大衆の欲求に答える、というのは現代ではスタンダードな方法にすらなっている。だからその「先駆者」村上春樹がチャンピオンになっている。また村上は海外でも人気であるし、こういう大衆・サブカル的なものの繁茂は日本だけに留まらないだろう。質は違えど、そういう傾向は全体に見られる。
 
 何故、こういう傾向が拡大されたかと言えば、大衆の上昇ももちろん原因の一つだろうが、私は人間の力が増大し、自然を支配する力が圧倒的に強くなった為だと思っている。だからこそ、科学技術は、大衆が信頼を置く第一のものにすらなっている。それは生活を便利にする。同時に、人々の幻想を現実化させてもくれるが、現実化した幻想がどれだけ貧困なものかとは考えてもみない。
 
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 朝井リョウに「何者」という小説があって、これは就活生の「リアル」な悩みを描いたものらしい。そういう意味では「リアリズム」的作品と言えるが、読んでいると、こんなちっぽけな、くだらない、細々とした人物達の動静などどうでもいいと思えてしまう。出てくる人物はつまらない人物ばかりであるが、そのつまらなさを意識していない所が一番つまらない。作者も意識していない。
 
 しかし、これは現実に「存在する」人物達であろう。だとすると、現実に存在するこうした人達そのものがちっぽけな、つまらない人ではないのか、という疑問が頭に浮かぶ。それを言ったら叩かれるのが今の世の中だが、何をするにもタレントになるというゴールしか見えていないような人がこれほどたくさんいる時、これが現実なのだという感慨を抱かざるを得ない。私は要するに、人間が人間そのものを家畜化したのが現代だと思っている。
 
 こう言うときつすぎると言うのなら言葉を変えてもいいが、言葉を変えても現実は変わらない。人間が人間そのものをフィクション化したと言ってもいいかもしれない。それも、通俗作品の様式に従ってフィクション化させた。テレビCMを見ると、庶民の小さな欲求を過大に意味あるものに謳い上げるようなものばかりである。それらの心地よさは自分達を肯定してくれる心地よさであるが、自分達の心地よさが「どこ」から来ているかとは人は考えない。
 
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 ハネケに戻るが、ハネケの作品は映画、つまりはフィクションである。しかしそれは最初に言ったように転倒した、倒錯したような様式を取っている。
 
 最初の台詞にあるように、ハネケの作品は、フィクションという嘘を使って、現実を構成している我々の虚偽を告発するというようなスタイルを取っている。私はこれは正道ではないような気がしていたが、むしろ、こうした路線が正道に通じる道であるような気が最近はしてきた。
 
 ハネケの作品は要するに「リアリズム」と言っていいのではないか。つまり、リアリズムという言葉の意味が変わってきている。現実をカメラで写すだけなら誰でもできる、だが、現実を写す角度が問題と考える時、どのような角度に価値があるのか。これを現代では大衆の願望に沿うようにするのに必死である。しかし、それは大衆の空想を現実にする補強にしかならない。そしてそれは結局は現実ではない。
 
 ミシェル・ウエルベックにもそういう要素があるが、ハネケも、現代の人々に特に「死」というものを突きつける。死というのは人々が一番忘却したい事柄だからだ。通俗作品は「死」をリアルに描かない。描いたとしても、それは我々の実際の死を感じさせるような辛さを回避する。それでも、現実に死は存在する。
 
 ハネケの作品がリアリズムであるという時、それは我々が、実はフィクション的な目線で世界を眺めており、その視線を破るものとして現れてきている、というような意味だ。テレビに映った観光地にしか興味がない。ヒット作しか見に行かない。我々の手に何かが届く時は既にそれをどう見るのか、丁寧な説明書がついている。その通りに世界を眺め、その場所へ行き、その通りに生きるのが常識とされている。
 
 だから、テレビで見れば、なんてことのない捕食の図も、実は我々が全く物を見ていないという理由によって、それは再び捉える必要がある事になる。私はここにフィクションを作る意味というものを見出したい。
 
 多くのクリエイターと呼ばれる人は今言ったような方向とは逆に動き、既知の空間を飛び回る事が自由だと心得ている。そこに自由も幸福もあるとされているが、その空間そのものが間違っていると断ずるフィクションもあるのではないか。だが、このフィクションも、他の同種のフィクションと同じ相貌をして市場に現れる。この差異は時間が明かしてくれるのを待つしかないだろう。
 
 生物が生物を食らう図というのは、本当は心底恐ろしいもののはずだ。暴力というのは本当は恐ろしいもののはずだ。そう言うと、わかったような顔で「だから暴力反対!」と言う。あるいは、暴力は画面の向こう側のロマンティシズムでしかないから、暴力や戦争を讃えたりする。問題はイデオロギーにあるのではない。感じる事だ。現実に生きる事だ。自分の目で世界を見る事だ。メディアが作り出した目で世界を見てわかったような気になる。これにほとんどのフィクション作品は参加している。しかしハネケが、あの偏屈な爺さんが、それに反するものとしてのフィクションの在り方を示してくれた。まあ、あまりにも意地悪的過ぎるとも言えるが。
 
 そう考えていくと、セルバンテスやフローベールが作品を作った意図は今も有効なのではないか。我々は夢を見ている、その事に気づく事がリアリズムである。だから、ハネケはリアリストであり、その為には、虚飾にまみれた現実をもう一度洗い直す必要はあった。芸術は既に終わったような外観をしているが、それは我々が終わったからであって、我々がまた一から歩み始めれば芸術もまたこれから長い道のりになっていくような気が私はしている。世界を見る目が死んでいる時、もう世界は既知のものであるような気がする。しかしそうではない。ドンキホーテはサンチョ・パンサに言う。
 
 「サンチョ、これが人生なのだ。だが残念な事には、この人生は芝居で見る人生程の値打ちはない。」
 
 これは人生というものを捉えた金言である。だが、これは小説という嘘の中で語られている。世の中には嘘でしか掴めない真実というものもあるだろう。人々が世界を嘘で覆っている時、フィクションという嘘でしか語れない何ものかもあるだろう。人生は芝居ではない、という芝居がある。人はただの芝居だと思う。家に帰って忘れる。そうして、自分の人生も所詮は芝居みたいなものだとは思ってもみない。いろいろな事は過ぎ去っていく。後に残るのは、やれやれ、どうやら人生は芝居みたようなものだったという感慨だけだ。実はそこから、芸術家は始めたのだが、人はただの作品、フィクション、嘘だと思うから何もわからない。それで人々の演じる劇は、舞台の上に載る事はできない。そこにはあまりに嘘が多いから。
 
 

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