最初の入院

あっちゃんと

先天性の心臓病で6歳で亡くなった長女の初めての入院から1年間を書いたものが出てきました。
今日、私と同じような思いをされている方にエールを送りたい。
そう思い、ここに改めて記します。もう30数年も前の話です。

1. 初めての入院

温子(上の娘)が、生後4ヶ月の頃でした。
夕食の準備の途中、泣き止まず、そのうち一点を見つめるように、じっとしている様子が、いつもと違うので不安になり、近くの救急病院に連れて行きました。
その病院では、特に異常は見つけられませんでしたが、紹介状を書くから、このまま大学病院へ行くように勧めらました。

冬の日曜の夜だったので、大学病院の救急は、ひどく込んでいました。
2時間くらい待って、やっと診察を受けました。女性の研修医でしたが、まず一言「呼吸が速いですね。」
「呼吸が速い」ことは、この子が生まれた頃、気になり、産婦人科医にも確認しましたが、「赤ちゃんの呼吸はこんなもんですよ。」と言われていました。

少し忘れかけていた、いや、忘れようとしていた、その答えがこの病院で見つかるかもしれない、しかも、それは大きな問題であるはずはない・・・独りよがりに、そう考えていました。
「肺炎などが心配されるので、レントゲンを撮ります。今日は念のため病棟に泊まってください。」

悪くても肺炎だと思い込んでいたので、まさか、その後、最悪の結果が待っているなんて、想像もしていませんでした。

2. 宣告

入院した翌朝、前夜かみさんにメモってもらったとおり、着替えなどを持って、病室に向かいました。
病室では、朝の9時前だというのに、お医者さんや看護師さんがたくさん出入りしています。かみさんに聞いても、様子が分からないようで、隅の方でふたり、立ちすくんでいました。
そのうち、器械を持ち込んだり、聞きなれない言葉が、飛び交い、「○○先生を呼んでくるように!!」・・・慌ただしく緊迫した雰囲気です。ただ事ではない様子に、だんだん不安になり、胸はどきどきしてきます。

そのとき30代後半のお医者さん(K先生)が僕に向かって「お父さんですね?」「はい。」と答えると、続けて、「私はストレートにしか、ものが言えません。はっきり言いますが、お子さんは心臓病です。しかも心臓病の中でも、とても重いものです。」・・・・

この言葉を最後に目の前が、だんだん白くなっていきます。
「すみません。先生、いすに座ってもいいですか・・・」そのまま頭を抱え込んでいすに座りました。代わって、かみさんが説明を受けていましたが、その声は、まるで感度の悪い携帯のように微かに、しかもところどころしか聞こえてきません。

3. 不安と絶望

温子が、「心臓の筋肉の病気で、手術ができないこと」「1歳まで生きられるかどうか分からないこと」・・・・医師から詳しい病気の説明を受けましたが、不安は募るばかりです。少しでも安心できる材料を探すため、医学書で病気のことを調べました。

そこには予後不良と書いてありました。予後って何・・・不良と書いてあるから、どうも何かが良くないらしい・・・(予後:病気の経過についての医学的な見通し。または、余命。)
さらに、1歳までに80%が亡くなると書いてあります。いくら調べても、不安を解消できるどころか、絶望的なことしか書いてありません。

誰もいない深くて暗い谷底に突き落とされたようで、なにを手がかりにこれから生きていけばいいのか分からず、途方にくれていました。
子どもが産まれ、夢と希望を持って過ごしていたのに、ある日突然、空き缶のようにぺしゃんこに自分たちの生活や将来、何もかもが踏みつぶされたような心境で、広い個室の真ん中にポツンと置かれた保育器の中で泣くわが子を前にしても、抱いてあげることすら出来ず、隅のいすに座り、交わす言葉もなく、ただ泣いていました。

当時のかみさんの日記には、こう書かれています。「何でもありませんでしたって、帰れると思っていたのに。なんで、あっちゃんが心臓病に。」「温子ちゃん、ごめんなさい。健康な身体に産んであげられなくて、本当にごめんなさい。」

4. 覚悟

5日経つと保育器から出て酸素テントに、そして、2日後、酸素テントも外れました。
まだ、点滴はつけていますが、抱いてあげることが出来るようになりました。それと同時に、僕たちも少しずつ落着いてきました。

ペシャンコに踏みつぶされた空き缶のような自分たちですが、娘の病気を受け入れる勇気とその病気に立ち向かう気力は、微かに残っていたようです。
温子の病気は、先天性の心臓病の子を1000人集めても、一人いるかどうかの病気と言われていました。
そんな確率を引き当てた子が、たとえ一歳まで生きられるのが5人に一人でも、そのくらいの確率を手に入れられない訳がない・・・それに比較的早いうちに、K先生に見つけてもらったのも、きっと運がいいからだ。

この子は、運のいい子だ。絶対に助かる、助からないわけがないなどと、かなり強引に信じていました。そう信じないと、見えないゴールに向かって、一歩も動けないことを知っていたのかもしれません。

一方、この頃だったと思いますが、K先生からは、「明日を考えないように。」「階段を一歩一歩のぼるように、その日その日を生きることだけ考えてください。」と言われました。

その後いろいろな場面で、この言葉の意味を考えることになります。「明日を考えずに、今日を生きる」、この言葉は、自分たちにとって、生きていく上での原点と言っても過言ではありません。

5. 笑顔

入院して20日経った日、個室が必要な患者さんが入ってきたので、3人部屋に移ってほしいと言われました。
「いくらか、いいのかな?」・・確かめるのが怖いので、確かめずに勝手に、そう思っていました。

入院後1ヶ月もすると、少しずつですが娘の成長を感じられます。
寝返りをしたり、うつ伏せになったり・・・心臓病ではあるけれど、ちゃんと成長していることがうれしく思えるようになりました。
また、この頃から、娘の笑顔も見られるようになりました。こんな可愛い笑顔は、それまで見たことがありません。

ほんとうに笑顔の少ない子でした・・・・横にするとすぐ泣き、ずっと抱かれていたのも、ミルクの飲みが少なかったのも・・・・全て、病気のせいだったのですね。きっと、しんどかったんだろうな。
ごめんね・・・

温子の笑顔を見ると勇気がわいてきます。今日を、この瞬間を大切に生きていこう。

かみさんの日記
「近頃、本当に可愛らしく、女の子らしくなりました。顔つきがとっても穏やかになりました。どうか、この小さな命を守ってください。」

6. 母親

夕食の準備の途中、あわてて病院に駆け込み、そのまま入院となって翌日には娘が重い心臓病と知らされた・・・・

かみさんのショックは、僕の想像をはるかに超えたものであったと思います。
温子が心臓病と知らされた後、実家の母に連絡するように言っても、なかなか電話すらできずにいました。誰にも何も話したくない、言葉を見つけることすら、億劫になっていたのだと思います。
彼女の責任ではないのに、あれこれ考えていたのでしょうね。口には出しませんが・・・

温子に付き添って入院し、家に帰れないままお風呂にも入れずいたので、僕が看ている間に銭湯に行くように言っても、「今は大丈夫。そのうち行くから・・」と言って、片時も娘のそばから離れようとしません。
どんな思いでいるのか、彼女にとってみれば、ほんの少しかもしれませんが、こちらにも伝わり辛くなります。
それから、一ヶ月は銭湯に行こうともしませんでした。

その後、二人の合言葉のようになりましたが「今、一番大変なのはあっちゃんなんだから・・」「こんなことくらい平気!」
そんな思いがあったからだと思いますが、振り返ってみても、かみさんは最後までほんとうによく看病していたと思います。

7. ひな祭り

入院中に3月3日のひな祭りを迎えました。
かみさんの実家から贈れたお雛様を母と飾り、写真を撮って、病室のベッドの脇に置きました。

かみさんの母が雛人形の話を持ち出した時、「明日が分からない」状態なだけに、主のいないお雛様だけ残ることになってしまったらと思うと、とても耐えられず、一旦断りました。

しかし、かみさんの母から「お雛様があっちゃんをきっと守ってくれるから」と言われ、その当時は、罰当たりにも神様とか仏様がいるのなら、どうして温子が病気なんかになったのだ、そんなものいやしない・・・いたとしても今さら助けてくれるとは到底思えない、ましてやお雛様が温子を守ってくれるなんて・・・・断る気力もなかったので、しぶしぶ従うことにしました。

その後も毎年、お雛様は、温子やかみさん、おばあちゃん、みんなの手で飾られました。
桃の花、ひなあられ、おばあちゃん手作りの甘酒も用意され、その前で撮った写真は、かみさんの母にも送りました。お雛様と撮った写真、5枚はどれを見ても、とても楽しそうな顔をしています。

食の細い子でしたが、かみさんの作るちらし寿司やはまぐりの潮汁を喜んで、おいしそうに食べていたのを覚えています。
あの時、かみさんの母の言うとおりにして良かったと、今でもつくづく思います。

8. 小児病棟

娘が入院している頃、杏林の小児病棟では、基本的には完全看護なので付き添いはできませんでした。
小さな子どもには、母親が付き添う事ができますが、家庭の事情で、お母さんが付き添えない子もいます。また、小学生くらいになると、付き添いはありません。

重症の赤ちゃんは、個室での付き添いか、付き添いなしの赤ちゃん部屋か、どちらかの選択になったと思います。
確か個室の差額ベッド代は、一泊10,000円から15,000円だったと記憶していますが、長期にわたる入院は経済的にも大きな負担です。

病棟入り口のガラスの扉には、感染予防から子どもが勝手に出入りが出来ないように、上のほうにロックがついています。夕方になると、この扉付近には、お母さんを待ちわびる子どもの姿がありました。
毎日は面会に来られないお母さんをぬいぐるみ片手に、ずっと待ちわびている女の子の姿は、今でも忘れられません。
「今日は、お母さん来たのかな?」お母さんの姿を見ると、こちらもほっとします。

夜8時、面会時間が終わり、お母さんを見送った後、小さな子は涙をこぼしています。
K先生から、小児病棟は病気との闘いの場と言われていましたが、子どもたちは、病気だけでなく、こんな寂しさとも闘かわなくてはなりません。小児病棟で、一番せつなく、またやるせなく思う時でした。

9. 預かり

杏林の小児病棟では、付き添えない親のために病院で預かることを「預かり」と言っていました。
入院して、1ヶ月くらい経つとK先生や看護師さんから、たとえ親でも、みんなそれぞれの生活があるのだからと言って「預かり」を勧められました。

その頃、僕たちは、温子と病気のことで頭の中がいっぱいで、その日を過ごすことに精一杯でした。
おそらく、そんな僕たちの姿が、余裕なく見えたのかもしれません。このままだと精神的に行き詰まってしまうと・・・
初めは、そんな話を聞いても、病棟でいつも寂しそうにしている子どもたちの姿を見ているだけに、「ずっとそばにいます。」と即答していました。

しかし、半月経ち、退院もすぐ目の前に見えてきた頃、今後のことも考え、慣れるためにも「預かり」にしたほうがいいとのことで、退院までの1週間だったと思いますが「預かり」を決心しました。

かみさんが昼食時に面会に行き、面会時間が終わる夜には僕と一緒に帰ります。
寝かしつけて帰るもののその後が心配で、看護師さんに前日の様子を聞くと、やはり目が覚め泣いていたとか・・・あぁ、しまった。やっぱり「預かり」にしなければよかった。
病気で一番つらいはずの温子を一人にしてしまい、寂しい思いをさせてしまった・・・とても後悔しました。

「どんなときも温子のそばにいよう・・・・」そのとき、二人で固く心に決めました。

10. 退院

病状が安定してきたので、入院してから、ちょうど2ヶ月経った4月1日に退院することになりました。

退院については、医師の間でも意見が分かれていたようです。
退院しても風邪をひかせ、助からなかったケースが何件もあり、治療といっても、薬を飲むだけになっていたのですが、感染予防の観点から入院を続けたほうが言いという医師もいました。

そのため、何人もの医師から「退院しても、一歳までは風邪をひかせないように。もし、風邪をひいたら、その時は命のやり取りをすることになるので、過保護になりすぎるくらい、感染には気をつけるように。」と何度も言われました。
温子にとって、一歳になるまでは、風邪が命取りになることを肝に銘じ、退院後の生活が、そう簡単なものでないことも知りました。


しかし、入院当初のことを考えれば、温子が家に帰れるなんて、本当に夢のようです。
とにかく、この入院生活に別れを告げられるなら、どんなことでもしよう・・・。

しばらくぶりに、我が家に家族がそろい、通りすがりの見知らぬ人にも退院を知らせたい、そんな気分でした。
このとき以来、春が大好きになりました。春の空、雲、風、道路脇に咲く花・・見るもの、触れるもの全てが自分たちを暖かく、やさしく包み込んでくれる・・そう感じます。

11. 教授

退院2ヵ月後、たまたま、学会で留守をしていたK先生の代わりにK先生の師匠にあたるO教授に診察をしてもらうことになりました。
温子の心臓は、通常の赤ちゃんの3倍くらいの大きさで、ほぼ大人の心臓と同じくらいと言われていました。

しばらくぶりに、温子を診るO教授は、レントゲン写真を見るなり、「こういう写真を見ると怖くなる。」「爆弾を抱えているようなもの、よくそんなに元気にしていられる。」と言いました。
続けて「このままじゃ済まない。そのうち、心不全を起こすでしょう。」と。

最後にあまり脅かしすぎた?本当のことを言い過ぎたと思ったのか、「でも、お父さん、お母さんのケアがいいんでしょうね。大変でしょうが、今の調子で育ててください。」・・・・

退院後、調子もよく、少しは、いいことが聞けるのではないかと期待していただけに、ショックも大きく、しばらく口が利けませんでした。
これは、ほんの序の口。
その後も、ずっとジェットコースターに乗っているようでした。静かに上ったと思ったら、まっ逆さまに谷底へ・・・・しだいに身も心もタフになっていきます。

12. 油断

退院はしたものの、風邪をひかせたら、命のやり取りをしなくてはならないと言われていたので、とにかく一歳になるまで、本人はもとより、家族も風邪をひかないよう、外出を極力控えました。

しかし、もうすぐ一歳になろうかという9月だったと思いますが、かみさんの運転免許の更新に付き添い、試験場に温子を連れて行きました。
人のいるところから遠く離れて、待っていただけなのに風邪をひかせてしまいました。あんなに注意していたはずなのに・・・・
このときは、軽い風邪ですみ、心臓にも影響はないとのK先生の言葉に安心したのもつかの間。

秋を向かえ、時期的にも風邪の患者さんが、今までの定期検診時より多くなっていたのでしょう。
すぐ後の定期検診時の病院の待合室で、感染してしまいました。油断です。今度は、前回のようなわけにはいきません。

熱も出て、咳もひどく、とても苦しそうです。夜、一寝入りした頃に咳がひどくなります。
母が煎じた金柑の汁を飲ませたり、汗びっしょりなので、着替えさせたり・・・これを一晩のうちに何回か繰り返し、朝を迎えます。
とても不安です。
咳をするたび、心臓が壊れてしまうのではないかと・・・心臓の鼓動がパジャマを大きく波打たせているのが、肉眼で分かります・・・その場から消えてなくなりたいくらい怖いです。


20日位するとやっと咳も収まり、食欲も出てきました。ほっとして、体の力が全て抜けていくのが分かります。しかし、ここでの安心は禁物・・・・これから冬になり、寒い季節を向かる不安が頭をよぎります。

13. 結婚式

温子が1歳になってすぐ、かみさんの高校時代の友人の結婚式がありましたが、ちょうど温子が風邪をひいてしまい、そばを離れることができないので、その結婚式を欠席しました。

その後、今度は僕の友人の結婚式があったのですが、無事に一歳の誕生日を迎えることができたのに、ちょっとした不注意から簡単に風邪をひかせてしまい、温子にとてもつらい思いをさせた後悔が、心に重くもしかかっていたのと、自分が風邪をひいて来ないためにも、友人の結婚式を欠席しました。

しかし、今から思えば、温子の風邪への恐怖、後悔以外に、華やかな場に行くこと、多くの友人に会うことへのためらいもあったのも事実だと思います。
理由はどうあれ、友人のとても大切な晴れ舞台を欠席し、大変失礼なことをしたと思うのですが、当時は、心の中にわずかな余裕すら、持ち合わせていませんでした。

温子を守るという自分たちの決意が強く、それが世の中の不幸を全部、背負い込んでいるように思わせていたのかも知れません。
心も体も萎縮してしまい、自分たちだけ取り残され、どこか別の世界で生きているように感じていました。

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作家パール・バックは、著書「母よ嘆くなかれ」で、「悲しみも叡智に変わることがあり、それは、仮に快楽をもたらすことはないにしても、幸福をもたらすことができる」と書いています。30年経って、やっと、その意味がわかってきました。
今はどんなに辛く苦しくても、いつか必ず幸せに思える時がやってきます。

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