旧統一教会をめぐる思索①
あの事件の数日後、実行犯Yへの取り調べから旧統一教会への恨みが犯行の根底にあると知り、ある思いが込み上げたのでFacebookに以下の文章を書いた。きわめて未消化な状態だったが、あれから1ヶ月以上経って読み返してもさほど状況が変わっていないことに驚く。引用に続けて、その先を書き足してみたい。
最後のところはうまくまとめられず苦し紛れがバレバレだが、今の実情に合致していないこともない。自民党のグズグズぶりは見てのとおりだ。
そもそもなぜ今頃になって旧統一教会が毎日騒がれているかと言えば、安倍元首相が暗殺されたからである。安倍を亡き者にした銃弾が「クタバレ統一教会」とばかりに放たれたことが明らかになり、それまで挙って選挙協力を要請し会費や祝電などを送ってきた自民党議員たちは、掌を返したように「これからは一線を画していく」と反省の色を見せているのが今日8月21日現在の状況である。
自分のボスが撃たれてようやく目が覚めたというより、まだ全然覚めてないと言ってよいだろう。支援者と思っていた宗教団体が、テロ行為によってハンシャであることが白日の元に晒され、マスコミから交友関係をしつこく問われ「これは魔女狩りだ」とでも言いたげに収拾を急いでいる。滑稽としか言いようがない。
憲法改正を唱え、家父長制維持を目指し、LGBTQ多様化社会に眉を顰め、靖国参拝を盲目的に行っている自民党の守旧的理念が、旧統一教会のような反社会的集団までまつわりつかせていることに、あまりに無自覚過ぎないか。むろん自民党の支援団体がすべてそうではないが、立候補する段階から政権に忍び寄る諸団体の思惑とのトレードオフを“必要悪”と嘯きつつ顕在化させていたはずで、あまりの罪悪感の欠如ぶりに「保守の視点は往々にしてフシアナである」との印象はさらに強まり、確信するに至っている(ずいぶん前からだが)。
率直に言って、安倍晋三が死んだことに微塵も悲しんではいない。だからといって殺されてよかったとテロ実行を歓迎するものでも、けっしてない。どこかのアナウンサーが言ったように、安倍は歴史の審判を受けるべきであった。安倍はいったいなぜ殺されたのか。Yを再び生み出さないために政治は何をすべきなのか。彼らが本当に安倍晋三を哀悼するなら、そこに立ち戻って考えるべきだろう。
たとえば一人ぐらい、自民党から「旧統一教会の教義は非常に素晴らしい。安倍さんがあれだけ応援していたのも当然で、私はこれからも旧教会とのお付き合いを続けたい」という議員が出てきてもおかしくないのに、みんな押し黙っているのは吊し上げが怖いからだろう。安倍一人を悪者にしている。まさに死人に口なし。ここまでくると安倍がかわいそうにさえ思えてくる。
問題なのは、マスコミが国会議員と旧統一教会との関係ばかりを追いかけ、問題の根本を見えにくくしていることだ。旧統一教会を槍玉に上げれば上げるほど、安倍晋三は殺されて然るべきだったという結論に行き着きかねない。このあたりは爆笑問題の太田光が問題提起している。自民党と旧統一教会のズブズブに対する袋叩きゲームに参加するかしないか。溜飲を下げたいだけなら、やめたほうがよい。ただ太田が懸念する「騒げばテロに屈したことになる」というのも違う気がする。
あの凶行はテロル(暴力)には違いないが、どこか親思いの息子が悪代官を仇討ちしたような、水戸黄門ばりの人情ドラマを見せられた気分になっている。溜飲が下がるのはこっちのほうだった。思わず下げた溜飲を口の中に戻す(気持ちの悪い)作業が必要だ。それをしたくないがために、自民党叩きで誤魔化しているように見える。
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以上が現時点で思うこと。事態は日々進行中なので、引き続き推移を見守りたい。