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弔意について 終戦/原爆/3.11

今日は9月27日。私淑する作家HYさんの78回目の誕生日である。Hさん、まさか自分の誕生日に、宿敵であった安倍晋三元首相の「国葬」なるものが敢行されるとは、ご心痛はいかばかりかと拝察する。この夏から新たに始めた(再開した?)twitterで、国葬に対する思いを共有させてもらっており、心強く感じてもいる。いささか品がないのがアレだれど。

たかが国葬。法的根拠もなく、岸田内閣の単なる戯れ。デモに参加もしないし議論もしない。ただ黙殺するのみ。今日は朝イチで会議があり、それが終われば新旧システムの並行稼働の入力作業に追われる。夜は小学校体育館でバレーボールの練習だ。日本武道館で行われる国葬を意識することなく一日が終わることだろう。住んでいる自治体が半旗を掲げようが知ったことではない。

国葬と比較にならない話をしたい。3.11のことだ。このかた11年間、石巻市南浜町の旧実家跡でその日その時を迎え、サイレンとともに手を合わせてきたが、ほかの人(国民=他県民)はどうしているのか、ずっと気になっていた。仕事をしながら机で1分間だけ瞑目する人、トイレに行くふりをして非常階段や屋上などで手を合わせる人、何もしない人、いろいろだろう。その日は必ず有給休暇をとって石巻に帰るので、在京のわが社の様子を知ることもなく、誰かに聞こうとも思わない(知るのが怖い)。

全国津々浦々、3.11の14:46に独り沈思黙考する人が一人でも多くいたらうれしいと思っていたが、これは「弔意の期待」になるのだろうか? 個人が期待するのと政府が期待するのとでは次元が違うが、安倍国葬に猛烈に反対しておきながら、3.11での黙祷を期待するのは矛盾していまいかと考えてみた次第(おそらく決定的に違うだろうというのが実感)。

石巻では、14時46分に防災無線を使ってサイレンが鳴る。それは弔意の強制とは違うだろう。石巻市民で、先の震災で誰一人知り合いが死んでいない人などいない。手を合わせ瞑目し、死者を思う時間を作るというのが石巻市民・宮城県民の了解だ。あのサイレンに法的根拠があるのかわからないが、ずっと違和感なくやってきたし、これからもそうだろう。*

*遺族の一部に、震災でPTSDを来しているのでサイレンはやめてほしいと願っている人もいるが、その話は別の機会に。

2012年の3.11に黙祷するボクらを撮影し、翌日の朝刊に掲載した某紙の写真。
実は捏造写真である。南浜の実家と門脇小学校はこんなに近くない。

たとえば阪神淡路大震災の1.17で、黙祷したり手を合わせたりしたことはない。5:46と朝早いこともあるが、地理的に遠く、知り合いは誰も死んでいないからだ。神戸の人が、ボクを含めた全国民に黙祷を期待しているのか知らないけれど、だとしても「そう言われてもなぁ」というのが正直なところだ。ならば逆の立場で、3.11に死を思うことを市外・県外の人に期待するのは、傲慢でしかない。

国や県単位で弔意を表すセレモニーとしては、8月15日の終戦記念日、8月6日と8月9日の原爆の日(平和祈念日または原爆忌)がある。サイレンではなく時報で、その時(黙祷の始まり)を告げている。8.15は正午(裕仁天皇が「終戦の詔書」のラジオ放送を始めた時刻)、広島と長崎は投下された時刻に時報が鳴っている。

これを書くのに、長崎県がこの日を何と呼び、その日の振る舞いについてどう伝えているかを調べたら、こんなことが書かれていた。

長崎県では、8月9日を「県民祈りの日」と定め、原爆犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、恒久平和への誓いを新たにするため、原爆が投下された8月9日の午前11時2分に全県民が一斉に1分間の黙祷を捧げることとしております。どうか、県内外を問わず、家庭で又職場で1分間の黙とうをお願いいたします。

長崎県HP

強制でも期待でもなく「お願い」であった。では宮城県はどうか?

震災から11年となる今年の「みやぎ鎮魂の日」(3月11日)を迎えるにあたり,県民の皆様には,震災が発生した午後2時46分に1分間の黙祷をお願いします。

宮城県HP

こうなったら終戦記念日も調べておこう。

8月15日は、戦没者を追悼し平和を祈念する日です。当日は日本武道館で、政府主催の「全国戦没者追悼式」が行われます。国民の皆さま、戦没者に対し、それぞれの職場やご家庭などで正午から1分間の黙とうをお願いいたします。

厚生労働省HP

77年前の終戦も原爆も、11年前の震災も、すべて同じような扱いであることがわかる。誰もここから「弔意の強制」は感じないだろうが、県なり国なりが「今日はその日ですよ」と伝えることで、平和や復興を祈願する適切なタイミングを与えているということだろう。

うーん、何を書きたかったのかわからない文章になってしまったが、弔意なるものは憲法で保証された内心の自由の問題であって、国家体制や見知らぬ他人などから強制や期待をされるべきものではない。310万人といわれる戦没者、50万人といわれる原爆犠牲者、2万人の震災犠牲者を追悼するのですら、ここまで慎重に(法的根拠を担保して)やっているのに、今回の国葬への道筋はあまりに杜撰すぎる。騒げば騒ぐほどバカバカしいので、黙殺するのが一番の得策と考えている。

Hさんのtwitterでは1時間おきに激しく抵抗しているが(笑)。それはそれで、カッコイイ。ボクにはできない。

※当初は「統一教会をめぐる思索②」として書いたが、国葬当日ということもあり題材を切り替えた。②は別稿を用意したい。