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追悼か鎮魂か慰霊か

今年もまた3.11がやってくる。11回目だが、そこに向かう心持ちは初回(2012年)のそれと大して変わらない。ただただ故人の冥福を祈るだけだ。昨年は10年でマスコミの数が多かった。今年はどうだろうか?自治体の追悼式典も、10年を区切りに今年から施行しないところもあると聞く。

石巻は、南浜津波復興祈念公園内の慰霊碑前で式典を行うという。市内で亡くなった3800人(うち行方不明者500人)の名前が刻まれた場所だ。それまでは内陸の屋内施設で挙行されていた(ここ2年はコロナ禍で中止)。昨年就任した新市長が決めたという。それはそれでよいのだが、気になるのは市長が独断でサプライズゲストを呼んだことだ。まだ発表されていないが、大騒ぎになることは目に見えている。慰霊碑は、いつもボクらが手を合わせている実家跡(元南浜町2丁目)の、聖人堀を挟んだすぐ南側であり、こちら側まで観客でごった返すことだろう。余計なことをしてくれた。あいつの歌でいったい誰が喜ぶだろうか? 少なくとも亡母は何の興味もないだろう。大月みやこあたりなら喜ぶかもしれないが(笑)。いったい公園は何のためにあるのだろう?

東日本大震災で犠牲になられたすべての生命(いのち)に対する追悼と鎮魂の場となる

(石巻南浜津波復興祈念公園HPより)

その主たる目的として、「追悼」と「鎮魂」と書かれているが、どこかおざなりな印象が拭えない。文面からはその二つに明確な使い分けがあると思えないのだ。書き手からすれば、どちらか一つでは物足りず、二つ書き添えたのだろうが、ならば追悼だけでよいではないか? 鎮魂とはどういう意味だろう?

昔から鎮魂という言葉は好きでない。「魂を鎮める」ということは、この地で死者の魂が暴れているという解釈だ。四十九日前ならともかく10年経っても鎮めなければならない魂がいるというのはいかがなものだろう? 「慰霊」という言葉も、鎮魂にニュアンスが近い。いずれも生き残った者に、死者への向き合い方を押しつけている気がして気持ち悪い。ただただ祈る。死者を思う。それだけでよいはずだ。

日本語は、死と向き合う際の言葉の選び方が難しい。そもそも貧弱で選びようがない。震災に限らないが、大切な人を喪ったときのケアとして、鎮魂や慰霊では非力すぎて遺族は安まらない。そんなときは仏教用語に頼らざるを得ず、ボクなどは「供養」なんて言葉を使ったりする。この言葉は好きだ。何でも供養供養と言っていれば、故人と対話している気になれるからだ。花を生けたり、墓石に水を遣ったり、歌を歌ったり。

さて今週末の慰霊碑前ライブだが、果たして供養になるのだろうか? 集まる輩は初めて石巻や南浜を訪れるのが多いだろう。彼らはそこで何を思うだろう?

復興祈念公園が追悼と鎮魂の場であるとして、あの日ここで何が起きたかを伝える機能もまた公園の重要な務めとなる。遺族の気持ちとは別のありようで、今後こうしたライブなどの集客イベントも増えることだろう。2年おきに行われている芸術祭「リボーンアートフェスティバル」も狙っていると聞く。つい先週も、広場でキャッチボールをしている若者がいた。それはそれでよいのだろう。

それでもボクは頑なに、手を合わせにあの場所へ向かう。鎮魂とか追悼とか供養とか、心許ない二字熟語などを念頭にすることなく、ただただ手を合わせる。その時間と場所を永遠に保証してほしい、それだけだ。