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37年前の4月1日

1986年4月1日、大学入学のため上京して東京に移り住んだ。それから37年をどうにかやり過ごし、今日、生まれ故郷の石巻に帰る。家の整理ができていないので完全なUターンではないが、月曜から新たな仕事に就いて、昨年購入した「わが家」から通うことになるので、実質的に今日が「帰郷」と言ってよいだろう。


新幹線に乗るべく大宮駅に向かえばよいのに所沢に向かっている。調布自宅からバスに乗って三鷹駅へ。そこからJR中央線で国分寺駅に行き西武線に乗り東村山、所沢で乗り継いで目的地の航空公園駅へ。学生寮時代の先輩たちと花見なのだ。92年頃から30年続いている。コロナの影響で4年ぶりの開催となった。当初は最後の出勤を終えてそのまま新幹線で石巻に帰るつもりだったが、4年ぶりの花見とあって、先輩たちに挨拶したくもあったので一日遅らせたのだった。キャリアバッグをズルズルと引きずって駅から徒歩数分の公園にたどり着くと、ここ数日の寒さでもちこたえた桜が満開となっていた。先輩たち数人が酒をあおっている。昔は20代の若者の集まりだったが、50代半ばからアラカンのオッサン数名が、桜のハナビラ舞う公園の一角でニヤついている。それだけで、37年という月日を実感できるというものだ。

いられたのは数時間だけだった。久々に会う先輩と他愛のない話をしていると時間が経つのも忘れる。そろそろここを離れないといけない時間だ。年末の忘年会も含めて年に2回しか会わないのだから、東京だろうが石巻だろうが関係ないのだが、やはり拠点を移すということに、気心の知れた東京の仲間に別れを告げることに一抹の寂しさを感じる。人数は少なかったが盛大に壮行してもらった。

入寮当時のY寮(東久留米市氷川台)

思えば37年前の4月1日、この日と逆のルートで石巻からはるばる上京してきたのだった。東北新幹線はまだ上野止まりで(当時は大宮乗り換えが早いという意識はなかった)、山手線で池袋に行き、黄色い車両の西武池袋線で東久留米なる駅に降り立った。パッとしない町で、東京に出てきた気分がどうにも盛り上がらなかった(第一志望の私大に落ちて、どうしても行きたい大学でもなかった)。「オレはこの町で暮らすのか」と心細げに思いながら寮までの道を歩いた。そして着いた建物がまた古かった。後で聞いたら築20年とのこと。今でこそ大した築年数ではないが、1980年代の築20年は相当なものだった。2年生のH先輩が迎えてくれて、部屋に通された。コタツに足を突っ込んだら「ギャー」と鳴き声がした。ネコがいた。3月に卒業した先輩が置いて行ったという。ネコが部屋の先輩か。夕方には近所の定食屋に連れていってくれ、別室の1年生を何人か紹介された。不安なままの上京だったが、やっと仲間に会えた。彼らとは生涯続く交友関係を保てた。つまりはそういう寮だった。寮生大会で方針や総括について朝まで議論し、正門前でビラを配り、学費値上げ反対のデモ行進を行い、秋の寮祭では仮装行列をして黒目川に全員で落ちた。新歓、寮祭前夜祭、追いコンの宴会では会議室で大騒ぎをして、最後には丸裸になって寮内を走り回り、屋上で朝日を浴びながら寮歌を歌って近所から顰蹙を買った。先輩も厳しく優しかったが、あれほど楽しい時期はなかった。それが37年前の4月1日の出来事だった。

そして今日、あの時と同じ先輩たちに見送られて東京を離れ、石巻に帰るという奇遇に恵まれた。そのことをどう考えたらよいのだろう。大した展望もなく、軽い失意のうちに入学、そして入寮。そこでの出会いなど単なる偶然でしかなく、運命などと針小棒大に言うこともないが、それでもやはり、この37年間の在京中にもっとも長く付き合った仲間だった。OB同士のつき合いは続けるにしても、一度帰郷してしまうとステータスが変わってしまうだろう。そこはメーリングリストやLINEグループを駆使して乖離してしまわぬようにしたい。


最後に、寮祭の余興(最高学年の劇のエンディング)で歌ったフォークソングの名曲「我が良き友よ」の替え歌(寮生バージョン)を披露して擱筆したい。

我が良き友よ~雄辿(ゆうてん)寮バージョン~

サンダル鳴らしてヤツが来る 買い物袋をぶらさげて
ボロい半纏にしみこんだ 雄辿の匂いがやってくる
あーああー 夢よ良き友よ お前今ごろどの空の下で
俺とおんなじあの星みつめて何思う

6年の先輩に声かけられて 頬を染めてたウブな奴
食堂に行けば熊坂の親父のメシが待っている
あーああー 友よ良き奴よ 俺は今でもこの寮に住んで
方針総括に手を焼きながらも生きている

雄辿らしさと人が言う お前の顔が目に浮かぶ
タバコ屋なのさと言いながら パチンコ通いを自慢する(注1)
あーああー 夢よ良き友よ 時の流れを恨むじゃないぞ
雄辿らしいは逃げないことだと言ってくれ

総務委員の柄じゃない 暇つぶしさと言いながら
寮生相手に自治意識 負担区分を説く男(注2)
あーああー 夢よ良き友よ 再履 再々履 粘ってみたけど
成績表が帰って来たらば「失」だった

古き時代と人は言う 今も昔と俺は言う
「ナンセンス」などと口走る 古き言葉と悔やみつつ
あーああー 友と良き酒を 時を憂いて飲み明かしたい
今も昔も寮生と飲めば心地よし

学生たちが通り行く 大泉ほどではないにしろ(注3)
関係ないねと言いたげに 肩で風切ってとんでゆく
あーああー 友よ良き奴よ 今の暮らしに飽きたら二人で
夢を抱えて帰ってみないか 雄辿寮
copyright Yoshida Takuro 

注1 パチンコの景品で大量のタバコを買って寮生に安く販売する「タバコ屋」をやっている先輩がいた
注2 80年代半ばに当局から一方的に言い渡された管理費(つまり光熱費)新設問題。「受益者負担の原則」と「教育機会の均等」が真っ向から対立し、敗北した。筆者の入寮時にはすでに制度化(既成事実化)されており「負担区分闘争は…」と苦々しく語る先輩たちが多かった。
注3 練馬区南大泉にあった個室の寮。学内の問題で共闘しようと声をかけても一向に反応しないノンポリを絵に書いたような寮だった