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会社の辞め方ご指南申し候

来年3月で会社を辞めることにした。飽きっぽいオレが17年もいたのだから、たいそう居心地がよかったわけだが、石巻へ帰りたい思いは断ち切れなかった。

会社を辞めるのはこれで5度目。取締役(経営者)という立場なので存外に厄介だった。取締役会規程によれば6ヶ月前に辞任願を提出せよ、とある。社長(取締役会議長)にメールで辞意を伝えたのが2月半ば。そこから定例会、臨時取締役会を経て先週初めにようやく承認された。後任の選任(本人の同意)が一番の障害だが、なりたい奴はゴロゴロいるから大丈夫だろうと踏んでいた。実際、大丈夫だった。

社の人間は、オレが石巻でどんな目に遭ったかは承知しているので、「石巻に帰りたい」と言えば「人生の選択までは止められない」と社長ほか役員は快く送ってくれた。まぁ言ってみれば、伝家の宝刀を抜いたわけだ。それでも「引き継ぎや若手採用などもあり少なくとも1年はいてほしい」と来年3月まで留まることにした。あと1年、東京と石巻を往復することになる。今の立場で円満退社するため(退任慰労金を満額でもらうため)にはやむを得ないだろう。

円満退社というのはなかなかむつかしい。口幅ったいけれども、組織のなかでそこそこに活躍し、期待されて重要な職責に立つことが多かったため、辞めるにはひと工夫ふた工夫を要する。企てが奏功するのは稀で、最後は激論を交わして相手を論破したりする。計画的にではなく突発的に辞めたこともある。辞め方指南――とはとても言えないが、これまでどうやって会社を辞めてきたかを書き留めてみたい。

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○某衛星放送会社(1991-94)

実はバブル期入社組。好きなことを仕事に選べると勘違いして、音楽専門PCMラジオ局の立ち上げに魅力を感じて意気揚々入社したものの、数年後にはバブルが弾けて高額な専用チューナーは売れず、同業他社も順次離脱して放送自体の存立が危ぶまれ、「オレは何をするために東京に出たんだ?」と自問する日々が続いた。漠然とした不安に駆られたある日曜日の午後、川崎向ヶ丘の上司自宅を突如訪問して辞意を伝えた。会社も人減らししたかったのか特段引き止めもされなかった(第二新卒なる新語が出た頃)。あ、「海外青年協力隊に挑戦したい」とか見え見えの口実を言ったのだったか(笑)。辞めて1ヶ月後に朝日新聞の3行広告で見つけた某出版社でのアルバイトにありついた。

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○某超零細良心的左翼版元(1994-97)

アルバイト募集のコピーは「体力ある人募集」だった。営業部で返品を運んだり結束したり、確かに力仕事が多かった。病気持ちの人が多かったので、とにかく働いてくれる人ということだった。ヤングアダルト/自己啓発本が売れていて、重版発注や電話注文、伝票入力に追われた。そのうち編集もさせてもらい、自分でも企画をいくつか出した。けっきょく3年ほどいて、最後は社長とケンカして辞めた。私淑していた石巻出身の作家/ジャーナリストHY氏のアシスタントをしていた関係で、社長が企画編集していた近刊(従軍慰安婦は存在しなかったと主張する某漫画家KYの本)に猛反対した。出社拒否して石巻実家に籠城してFAXやりとり。1週間後に帰京して荷物をまとめて出た。一番乱暴な辞め方。翻訳企画2点を抱えており、そのうち1点は契約を破棄したため過料としてアドバンス(外国印税前払い)同額を退職金から引かれた。もう1点は版権そのものの持ち出しを許可され、洋泉社に持ち込んだ。エドワード・ファウラー著「山谷ブルース」(川島みどり訳)。われながらいい本の版権をとったなぁ。

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出社拒否騒動で帰省した際、石巻の日和山で数十年ぶりに桜を見た。投句用函が置いてあったので、その場で吟じた俳句を入れてきた。

息切れて 見るふるさとの 桜かな

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○某美術業界グラフ誌版元(1998-2000)

前職を辞めて1年近く無職が続いた。HY氏の推薦で某K川書店を受験したがどうにも合わず途中で辞退した。HY氏のアシスタントをした自負と、天下のK川を蹴った自負とがないまぜになり、変なプライドができあがった。これで就職活動をしてロクな結果になるはずがない。20~30社は受けただろうか。出版社を諦め「船にでも乗るか」とタンカー会社に応募したが面接にすら進めなかった。失業保険も切れ、近所の八百屋(早朝の配送アルバイト)に応募するも断られた。もはや世の中に必要とされていないと自死も考えた。ちょうど長野五輪をやっている頃だった。スキージャンプ団体で金メダルをとった選手たちの無邪気な笑顔が悔しかった。それでもアルバイトで糊口をしのぎ、毎週日曜に市立図書館に行き、朝日新聞で美術品販売の求人を見つけた。出版社だというが聞いたことがない。とりあえず書類を出したら面接に呼ばれた。面接官のT氏が今まで携わった本を読んでくれていて、美術品販売ではなくグラフ誌編集職に抜擢された。これはうれしかった。1年間無為の生活をしていたぶん、必死になって働いた。実に楽しい仕事だった。何より作家(画家や彫刻家や書家など)から生の声を聴けるのがよい。いい先生たち(画家)にも恵まれたがここも2年半しか続かなかった。編集者としてのセンスやスキルがどこまでも追究できる気がしたのだが、80歳を超えた創業社長K氏の暴君ぶりに耐え切れなかった。元軍人。「インパール作戦の生き残り」と言っていた。フロアには「報告 連絡 相談」の貼り紙。信賞必罰で衝突も多く、意見が対立すると倉庫業務に就かされた。資金繰りが悪化し給料遅配が続いた。何とかしたかったが3年目の若手社員ではどうすることもできなかった。在職中に大学同級生と結婚して2年目に子供ができ、嫁から「遅配が続く会社にいられても不安だ」と言われて退職を決意。独身だったら辞めていなかったかもしれない。次も朝日新聞で求職。出版社はいったん諦め、家族のために安定した仕事に就こうと考えた。

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○某公共放送関連会社(2000-05)

オー、森下さんだ(同社HPより写真借用)。写っている機械は富士XEROXのドキュテックだろうか。放送台本や楽譜制作、業務用名刺、楽譜制作、選挙やオリンピックの資料づくりなど、公共放送の業務支援をする会社だった。印刷現場の受付進行を2年、総務を3年やった。公共放送の支援会社だったので、現場の裏方をやるのは楽しかった。大河ドラマの脚本原稿を深夜に受取、徹夜で台本を作る仕事や、オリンピックや選挙の資料作りなど。ただ現場の環境がひどく持病のぜんそくが悪化して本社への異動を希望したら総務に行けということになった。個人情報保護、下請法、ハラスメントなどコンプライアンス対応で忙しく、毎日午前1時、2時まで仕事した(タクシー券で帰宅)。育児がほとんどできず嫁に負担を強いていたので、もっと時間的余裕のある仕事に就きたいと転職先を探していたら、今の会社の募集広告を見つけた(出版社を諦めたはずなのに…)。今回も朝日新聞。最初の衛星放送も含めて、すべての就職先を朝日新聞の求人広告で決めたことになる。

今の会社のことは書かないでおく。ここも定年までいるつもりだった。震災さえなければ、ね。

こうして5社ほど、東京のマスコミ関係に奉職したわけだが、指南できるとすれば、転職を重ねていることを「武器」にできたことだろうか? 4社目まで3~5年しか務まらなかったのは、飽きっぽい性格だったり、自分の信念を曲げられない意固地な性格だったり、社会への不適合が目立ってしまうが、1社目では株式総務や法務を経験し、2社目では書籍の製作と編集、3社目では雑誌編集、4社目はガラッと変わってコンプライアンスやシステム・ネットワーク管理に従事できたため、ユニークな職能・職歴ということで受け入れられたと思っている。

旧帝大や早慶を出ていれば、誇大にアピールせずとも自分の求める会社に入れるだろうが、こちとらそうではないので、まずはアルバイトから始めて地力(経験とスキル)を身につけるしかない。会社が1本の木とするならば、最初は小さな低い木に登ることからキャリアスタートさせ、隣の大きな木に飛び移れるだけの力を十二分に養い、いざというタイミングでパッと飛び移る。それを数回繰り返せば、いつしか旧帝大や早慶組よりはるか上になれる――というのが、たどり着いた持論だ。

そう簡単にはいかないだろう。自分だって、まさか今の会社で役員までやれるなんて思わなかった。すべては朝日新聞の募集広告の“縁”のなせる業だ。結果的に不本意な就職・転職もあったが、すべて自分の人生。震災も含めて。肯定も否定もしない。運命と受け止めて、がっぷりに組み合って、得意技で投げ倒すだけのことだ。