三つの歴史観②

 以前の記事で私は三つの歴史観を提示した。歴史観Aは科学史であり技術史である。西欧では十六~十七世紀に科学が生まれ、十八~十九世紀に産業が生まれた。科学と産業の誕生は互いに影響せず別々の起点から生まれたのか、それとも影響しあっていたのか、このあたりは自分はよくわかっていない。前者の理屈だと、科学と産業は別の地域から生まれてもいいことになる。例えば科学は西欧で、産業は中国で生まれた歴史があっても良かった。だが、そういうことはなく、両方ともイギリスで生まれた。自分は科学と産業の発展は両輪だったと思う。科学革命と産業革命がなぜ西欧で起こったのかは今でも議論が続いており、決着がついていない。科学と産業の発展は十六~十八世紀はほぼ西欧で進行し、十九世紀後半には欧米露日に広がり、二十世紀末にはほぼ世界中に広がった。今では歴史観Aは、世界中で共有されている。世界の都市の光景はどこも同じだ。高層ビル群、鉄道、道路、自動車、街灯、公園、エスカレーターはどこでもある。科学技術によって街並みは単一化された。今では世界中の人々がスマホを手にして検索をしている。互いにいがみ合う敵国同士も、数学と理科の教科書はほぼ同じ内容だ(生物学と地学は若干違うかもしれない)。近代以降の数学史、科学史、技術史はほぼ世界共通である。科学技術によって数百年で人間社会は平坦化された。


 歴史観Bは政治史である。法制史と言ってもいいのかもしれない。歴史観BもAと同じく発症は西欧、主に英仏である。科学と産業は、英仏以外の国でもすぐに受け入れられたが、政治と法に関してはそうはいかなかった。人権思想は科学技術ほどの普遍性を持たない。科学革命と産業革命の成果は世界中で享受されたが、市民革命はそうならなかった。法の下の平等、信教の自由などの思想は徐々に西欧全体へ、そして米国へ、さらには日本へと広がっていったが、これは人権思想に普遍性があったからなのか、それとも戦争に強くなるために必要な思想であったのか、自分にはよくわからない。


 西欧で啓蒙主義を唱える知識人たちが現れ、彼らが先進的な思想を築き上げ、その影響で三大市民革命が起こり、今日に至るまで自由と平等を求める運動は続いているという考えは魅力的である。唯物史観が無効となった今、人権思想の進歩史観、すなわち歴史観Bを心の支えにしている知識人は少なくないと思われる。新書などで昨今の知識人たちの文章に触れると、人間社会は倫理的に進歩していくべきだ、人間はもっと高い道徳律を目指すことができるという考えを持っていることが行間からうかがえる(私の先入観と偏見かもしれない)。あくまで主観だが、道徳と倫理の進歩を願う学者たちは結構たくさんいると感じる。科学の進歩に警笛を鳴らす人が、人権の進歩は安易に信じていたりする。


 私としては、そのような進歩主義には若干の懸念を抱いている。なぜなら、人権の進歩の先陣を切ってきた西欧が、以前ほどに世界に対して影響力を発揮することができていないからだ。二十世紀は、西欧、米国、日本、ソ連あたりがメインプレーヤであったが、二十一世紀に入り、中国をはじめとした多くの新興国が加わり世界は多極化、フラット化していく。歴史観BはEUの理念に近いところがあると思われるが、新興国が力をつけるほどにEUの影響力が弱まっていくことを考えると、歴史観Bへの信頼も揺らいでいくだろう。人権自体は重要な概念だと思うが、今後は欧州も米国も衰退していく。そのような時代において、欧米に依存しない人権のあり方、啓蒙思想や市民革命の理念に頼り切りではなく、日本の歴史に根付いた人権思想、自由と平等の概念を考えるべきだと思うが、まあ無理なのかもしれない。自分でよくわからないことを書いているなと思ったりもする。とはいえ、欧米の衰退はほぼ確実にやってくるので、考えておくことは重要だと思っている。貧困化していき、他国との戦争も起こりかねない近未来の日本では、自由や人権など簡単に葬り去られるかもしれないのだから。


 結局、華々しい歴史観Bは世界中を植民地として管理し、収奪してきた歴史観Cがあってこそ成り立つのかもしれない。科学革命と産業革命によって圧倒的な軍事力、技術力、経済力を手に入れた西欧は、いち早く市民革命によって、民主主義と議会政治と選挙制を実現した(時系列が少しおかしいかもしれない)。他国に先駆けて手に入れた自由と平等の理念は、他国を蹂躙したことで可能だったのかもしれない。古代ギリシャでも民主制に参加できる者は一部の市民に限られており、その下層には市民よりも多くの奴隷が存在していた。結局は、自由主義や民主主義という政体は、その政体に参加する成員を上回る奴隷の支えがなければ成り立たないのかもしれない。


 歴史観Bと歴史観Cは、近現代を牽引してきた西欧の表と裏の歴史である。どちらも政治の歴史であり、科学と産業の歴史である歴史観Aとはまた異なる。前者は上部構造に近く、後者は下部構造に近い。ただし、マルクスの言う下部構造は、主に経済関係のことであり、私が提示した歴史観Aとは異なるだろう。私には十七~二十一世紀間のおおまかな経済史観が把握できていない。おそらく、その経済史観は歴史観Aと歴史観B、Cの間に存在することになるだろう。

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