時間の話

 中世までの人間社会は、時間概念は大きく分けて二つあったのだと思われる。一つは地球の公転による年、月の公転による月、地球の自転による日の主に三つの構成単位がくり返し、昼夜と季節が巡ることで成り立つ自分の外にある客観的時間(中世までの人々はまだ地動説は知らなかっただろうが)であり、もう一つは自分がこの世に生まれて死ぬまで続いていくことで成り立つ時間、すなわち人生という名の自分の側にある主観的時間である。客観的時間は同じことをくり返し続ける循環的時間であり、未来永劫この循環が続いていくと信じていた中世人は多かっただろう。一方で主観的時間は始まりと終わりがあり一定の方向に進んでいく直線的時間であった。キリストの教義では、世界には始まり(天地創造)と終わり(最後の審判)が定められており、この世は人間の一生と同じように直線的時間に支配されていると説いていた。古代人と中世人にとって受けいれがたい教義であったにも関わらず、西欧では真面目に信じられていたようだ。当時の人々にとっては循環的時間こそが、世界を包括する最も大きな流れであり、キリストの教えにある超越した直線的時間は信仰の対象でしかなかっただろうが、これが近代に入り科学的に正しかったことが立証される。

 ケプラー、ガリレオ、ニュートンらによって成された科学革命によって太陽が地球を周回しているのではなく、地球が太陽を周回していることが正しいことがわかった。さらに、天体の研究は進み、延々と続くと思われていた日、月、年の循環サイクルも始まりと終わりがあることが証明された。太陽と地球は46億年前に生まれて今日に至るまで存在し続けてており、さらに月は地球との衝突によって生まれていたのだ。そして、太陽も地球も月も遠い未来にいずれは死を迎えることさえもわかった。延々とくり返す日、月、年という絶対的な循環的時間のさらに上位に君臨する直線的時間が存在することなど中世人には思いもよらなかっただろう。キリスト教ではすでにその世界観を先取りしていたとも言える。さらに太陽系よりも広大な宇宙空間に目を向ければビッグバンから始まった137億年の歴史があるらしいが、このあたりはまた覆る可能性もありそうだ。いずれにしても、現状では最も上位に存在する時間概念は直線的と考えて差し支えなさそうだ。

 この宇宙-地球スケールで捉えられた数十億年単位になる直線的時間概念は、中世人が日常生活で実感していた客観的時間のさらに上位にくるものであり、これを超客観的時間と名付けることにする。この超客観的時間を発見することができたのは、やはりニュートンが時間を数値化してtで表す方法を生み出した功績が大きいと思う。もちろん、近代以前から時間の数値化は徐々に進行していただろうが、やはり古典物理学の誕生あたりからその流れが一気に加速したと言えると思う。さらに19世紀になり産業革命が起こり、現代式の時計が発明されると私たちの生活は時間によって縛られるようになった。今日では何をするにしても数値化された時間に追われる生活を送ることを強いられる。これを無視すると、社会からは排除されてしまうだろう。この数値化された時間は、超客観的時間とつながりが深いと考えていいと思う。現代社会に生きる私たちにとって最も馴染みがある時間概念は、超客観的時間なのだろう。もちろん、客観的時間も主観的時間も存在する。私たちは日々昼と夜を経験し、季節が巡っていくことを知っているし、自分の老いを実感したり戻れない過去に思いを馳せたりもしている。中世までに人間の肉体と精神に深く関わっていた二つの時間概念があったが、今日では近代から勃興してきた超客観的時間概念が割り込んできた。このおかげで人間の肉体と精神は混乱することになったのかもしれない。

 主観的時間と客観的時間にさらに超客観的時間が加わったことで、人間が把握できる時間概念は三つになった。だが、これではバランスが悪い。人間の時間概念は客観性の方に引きずられ、精神は苦痛に苛まれ内面は荒廃していく危険に脅かされることになった。このために、超客観的時間の対になる概念として、超主観的時間が顕在化することになる。超主観的時間自体は、はるか昔から人間に備わっており、人間は自覚しているものではあったがそれほど日常生活で意識するものではなかったのではないかと思う。だが、近代に入り周囲が機械に囲まれるようになり、生活が忙しくなり、精神が超客観的時間概念に苛まれるようになると、自ずと超主観的時間の存在が精神世界で占める比重も大きくなっていくと思われる。

 最近読んだ「世界は時間でできている」(平井靖史)という本に面白いことが書いてあった。世間でよく耳にする「時間は存在しない」論には二種類存在するとのことである。一つ目は「過去や未来は人間の想像にしか存在しないものであり、人間が実感できるのは現在という瞬間だけだ。過去から未来へと時間が続いていくと考えるのは幻想である。ゆえに時間は存在しない。」、二つ目は「物理法則は基本的に時間的対称であって、過去と未来の区別がない。また、厳密には山の上とふもとでも時間の進み方は異なる。空間内の場所によって時間の進み方は違ってくるという事実がある。ゆえに時間は存在しない。」。前者は主観性の強い思想を土台とした言説である。アウグスティヌスも同じようなことを言っているし、ラッセルの五分前仮設も根底の思想は共有していると考えられる。過去からも未来からも遮断された現在を強調する瞬間至上主義とも言えるこの手の説が、どこまで説得力を持つか自分は怪しいと思っているところはある。後者は客観性の強い思想を土台とした言説である。時間を数値化した物理学は、人間の身の回りにある領域の自然現象を次々に解明していったが、それだけでは飽き足らず宇宙空間や光の速度といった極大の領域と、原子の内部の詳細や電子の動きといった極小の領域までも研究対象とするに至った。この領域まで人間の頭で無理に理解しようとすると、色々と齟齬が生じるようになる。これ自体はしかたのないことだが、この現象をむやみに持ち上げてしまったことで、話がこじれてしまった。量子力学と仏教の関係性について論じたり、無の概念をことさらに強調したりする学説が現れたが、実りのあるものが出たとは言い難いと自分には思える。人間が生活しているスケールから極端に解離した領域で起こる自然現象を、人間の頭で無理に数学的に辻褄を合わせようとすると様々な不都合が生じるのはしかたのない話であり、その事実を大げさに論じすぎたのではないかと思う。時間をあまりにも客観化させた側から世界を把握しようとすると、時間の存在が怪しくなるというのは確かなのだろう。だが、それで私たちの日々の生活が特に脅かされるわけでもない。私たちは極大の世界にも極小の世界にも生きているわけではない。物質が密集した地球という星の上で重力に縛られながら、一メートル後半ほどのサイズを持って生きている生物なのだ。最先端の物理学の成果をちらつかせながら、常識を逆なでしようとしてくる議論にどこまで耳を傾ければいいのかは考える必要がある。とはいえ、私自身も人間は細胞の集合体とか極論を良く言っているから、同じようなものかもしれないが。

 客観的時間は循環性、主観的時間は直線性が強い。そして、超客観的時間は直線性が強いものである。だとすると、超主観的時間は循環性の傾向があるのだろうか。時間は自分の身体の内側で把握するものでありながら、自分の身体の外側で自分とは無関係に存在しているものでもある。自分の内側の世界と外側の世界の双方が存在しないと時間は存在できない。主観側に属する時間は、人間の身体が関わってくる。人間は一人一人心と身体のあり方が違うために、把握できる時間の質も異なってくる。よって、その人によって把握できる時間、その人に流れている時間も違ってくるのだろう。そんなことは日々の生活でも実感できることだ。このような主観側に属する時間を、超客観的時間は押しつぶしていき、平板化していく。超客観的時間は極度に空間化された時間だと言える。高度な文明化、機械化によって、人間は時間を容赦なく数値化、物質化、空間化してきた。その果てに、異なる空間では流れる時間は違ってくるという理論が生まれてくるのは面白い。そのような世界で語られる時間は、もはや流れる時間とは言えずただ数値化された時間であり、時間の空間化が完成された結果として得られたものかもしれない。

 時間は、自分の内側と外側の双方が成立することで存在可能であると先に書いたが、空間についても同じことが言えるだろう。とはいえ、空間の場合は時間よりも外側に偏って存在しているものだと思う。人間が空間を把握するためには、時間を把握するときのように複雑な精神を媒介とする必要はないだろう。時間に比べると空間は外的なものであり、感覚と密接に関係している。空間を把握するためには、主に視覚と触覚が重要であり、その後に聴覚、嗅覚、味覚と続く。味覚以外は、空間把握に役立ってくる。時間を把握する場合は、聴覚と視覚が重要となり、後の触覚、嗅覚、味覚はほぼ役に立たないように思われる(書いていて少し自信がなくなってきたが現時点はそう結論付けておく)。時間に比べると空間は感覚器で把握できる可能性に開かれている。特に空間把握には触覚が欠かせないところが、時間把握の場合と多いに異なると思う。触覚は感覚の中でも最も原始的な感覚だ。触覚以外の感覚は顔に集中しているが、触覚のみが全身に存在している。肉体の表面に隈なく広がった感覚であり、原始的な動物でも持っているものだと思う。戦場から戻ってきたジョニーは他の四つの感覚は奪われたが、触覚だけは残されていた。時間は空間ほどに外的なものではなく即効的なものでもない。人間の精神の働きを必要とするものだと思う。

 今回の文章は最近読んだ「世界は時間でできている」の影響をかなり受けている。内容は難しくてよくわからなかったが、いずれ再読してみたいと思わせる内容であった。また、引用部分は自分が勝手に内容を変更しているところもあるので、著者の主張と異なったことを書いているかもしれない。

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