産業の話

 今日の私たちは人類史において空前の豊かさを手に入れた世界で生きている。イギリスから始まった産業革命によって工業化は世界中に広まり今日の豊かさが実現した。なぜイギリスで起こったのかは学問の世界で度々議論されている。理由についてまとめてみると、植民地政策により海外市場を持っており物資も手に入りやすかったこと、囲い込み運動によって農家は都市に移住しておりいち早く都市社会が形成されていたこと、多くの戦争で他の西欧諸国より優位に立ったことで植民地利権で優位に立ち金、銀がイギリスに流入したこと、世界に先駆けて主に製鉄のために森林を伐採し尽くしたことで石炭をエネルギー源とするシステムが必要になったこと、またその石炭が豊富であったこと、市民革命を経て議会制度が機能していたために市民の自由が容認されており技術者の発明も活発であったこと、十七世紀に科学革命が起こっておりすでに科学の知識の蓄積があったこと、金融市場が発展していたことなどが挙げられる(いい加減なことを書いているかもしれないので、また学び直したいが時間がない)。すでに産業革命前から、西欧では大躍進の予兆はあった。その予兆とは15世紀あたりから始まるルネサンス、宗教改革、大航海時代、市民革命、科学革命などであり、産業革命は西欧の大躍進が経済的、物質的に顕在化した最終段階の現象として取り上げてもいいのかもしれない。

 イギリスで起こった産業革命は、その後フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本などにも広がっていく。やがて十九世紀後半には第二次産業革命が始まり重工業化が進んでいく。そして二十世紀に入るとハーバーボッシュ法が発明され、緑の革命が起こり、マルサスの懸念は払拭され、今日にいたるまで深刻な食糧危機を人類は経験していない(アフリカをはじめとした新興国での飢饉などは問題ではあるが)。人類史において大部分は経済的に停滞の時代であったが、この二百年ほどで劇的な変化があった。日本に関しては、明治維新以降に西欧の文明、文化を取り入れたので約百五十年である。その間に目まぐるしく変わっていった。そして今もまだ過渡期なのかもしれない。確かに産業革命から始まる約二百年で大きく変化したのだが、それを用意したのはルネサンスから始まる西欧における約五百年の躍進にあると自分は考えている。西欧人が、人間も人間社会も自然環境も根底から変革したと言っていいのだろう。現代人の生活は、原初のサピエンスに適した生き方から逸脱したレベルに達している。この五百年ほどの変革が人類の心身にもたらした影響は、それ以前の数万年の影響より大きいのかもしれない。少しずつ人類は違う種に変貌していっている気がする。草原を駆けまわり草食動物を追いかける暮らしをしていた生き物が、自然界から容赦なく命とエネルギーを収奪する機関によって支えられた都市社会で快適な暮らしを営む生き物へと変化した。自然からの驚異を技術によって克服し、自然を征服できる能力を備えた今日では、同じ人間である他人の存在の方がずっと驚異になっている。いや、他人よりも自分の存在に苦しめられているかもしれない。原始人が現代人のようにむやみに自殺を選んでいたとは考えにくい。文化も文明もとどまることなく猛烈な勢いで変化してきた。芸術と技術への飽くなき追及心は止まらなかった。人間の歴史を俯瞰すると、明らかにどこかへ進んでいることは明白だ。歴史は韻を踏むがくり返さないと誰かが言っていた。一本道であり、二度と過去には戻れない。人間も社会も自然も否応なく変わっていく。結局、人間は何がしたいのかよくわからない。際限のない向学心を背負わされている。そこから脱却することは許されないらしい。

 自然界からの影響を極力減らした今日の便利な社会においても、格差や闘争や差別は相変わらず存在している。人間も自然の一部なのだから、人間社会に存在する問題は、自然界とつながっていると考えた方がよいのだろうか。都会と自然を対立構造に置く見方は有効な場合もあるが、自然の延長上に都会が存在すると考えることも必要だと思う。文明が進歩して生活水準が向上すると、人々の生活スタイルも変化するので、それに応じて政治的な対立構造も変わっていく。人間の社会は常に敵と味方に分離しないと成り立たないのかもしれない。技術の進歩によって対立構造は変化していく。都市化が進むほどに、人間同士の差異は感じられなくなり、社会は平坦化していく。今では男女の差もそれほど感じられなくなった。中世の時代に男女平等なんて概念は存在もしなかっただろう。男と女が違う生き物だということはあまりにも自明だったからだ。子供が頻繁に死んでいき、多くの人々が農業に従事して肉体労働を強いられる社会で、男女が平等と主張したところで誰が耳を傾けただろう。科学技術が進歩して都市が発達すると、人間は粒子化して性差が小さくなる。自己家畜化と言っていいのだろう。進歩した社会では、社会がフラット化することで対立構造はより根源的、動物的になっていく。人間を都市に住ませることで、人間同士が同等の存在だと人間に気付かせることができるが、人間は隣人との間になんとかして差異を見出そうとするので、対立はより陰惨なものになっていかざるをえない。平坦化した社会では、性という根源的な領域が政治の主題になってしまう。便利で快適な社会で暮らしを享受できる代償なのだろうか。絶えず命とエネルギーを簒奪する社会で、自由に自分らしく生きることを願おうとするのはしかたがない。人間が担わされた業なのだろう。少しずつサピエンスの定義から外れていき、少しずつ違う種に向かって進んでいる感じがする。新しい種が誕生するのだとしたら、それは研究室の実験台ではなく、それなりに裕福な国の中間層で普通の暮らしを営む人々の中から出てくるのではないかと思うことがある。シュタイナーが同じようなことを書いていた気がするのだが忘れてしまった。これは一種の優性思想なのだが、ここで言う優性の種は最も家畜化された種とも言える。

 今回の文章は、最近読んだヴェイユの自由と社会的抑圧の影響を受けている。初めに書きたかったことがあったはずなのだが何だったか忘れてしまった。今日の豊かな社会を成り立たせているのはウランと化石燃料なのだろう。特に化石燃料は重要であり、二十世紀後半に石油の利用が本格化したことで飛躍的に欧米日は豊かになった。紀元前からそれほど変わらなかった平均寿命と平均身長が一気に伸びたのは、石油が影響している可能性はあるが、このあたりははっきりしない。寿命が延びた原因の一つとして考えられるのは、子供が死ななくなったということだ。人間社会は長らく幼児の死亡率が高いままで推移していた。徐々に死亡率は抑制される方向へと進んでいったがそれほど大きく改善されてこなかった。だが、産業革命の時期辺りから一変した。この二百年ほどで幼児の環境が大きく変わった。子供が死ににくくなったことで女性の出生率は低下した。また成人も今より病気にかかりやすく、簡単に死んでいく時代が長く続いていた。

 これらの問題がほぼ一掃されて寿命が飛躍的に伸びたということになっている。考えられる原因としては、水道が整備されて昔に比べて感染症に対して脆弱でなくなったこと、食糧が豊富になり庶民にまで栄養が十分に行きわたる社会を実現したことで、人々の肉体は病気に対して頑丈で健康なものになったことが大きいと思う。これらの点を考慮して、できるだけ豊かさを損なわずにエネルギーを節約する社会を実現できるだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?