備忘録 11. 未来への不安と希望

「人類の終着点」(朝日選書)のエマニュエル・ドット氏の文章を読み、暗澹たる気持ちを抱いて、昨夜は床についた。どうやら、私たちの未来は決して明るくないようだ。私たちはなんとなく、それに気づいているのだが、でも気づかないふりをして、毎日を生活している。いや、気づかないふりをしないと生きていけないのだ。

彼は、その文章の最後に、「私が話したようなマクロな未来予測とは、全く関係ないことが世界中では起こりうる」として、「その後も、ひとりひとりの人生は続いていくのです。」と述べている。これを光明と捉えるか、諦観と捉えるかは別として、それこそが真実なのだと、漠然と感じることができる。

人口の極端な減少、民主主義の終焉、新たな封建主義、一部の超富裕層による支配、どれをとっても、明るい未来はない。ドット氏の言うとおり、マクロには、明るい未来はやってこない。では、私たちには絶望しかないのか?そうは思わない。私たちはマクロで生きているのではなく、個々の世界で生きているからだ。

野鳥は、しばしば群れで空を飛んでいる。しかし、餌を食べて、生き延びる行為は、個々の鳥の自己責任である。集団が餌を与えてくれる訳ではない。飛んでいる個々の鳥は、餌を食べ、ねぐらを探し、時期によっては、パートナーを求めて、飛ぶのである。同様に、私たちは、自分の国の政治家の行動や、アメリカや中国などの大国の動き、紛争地域の経過などを気にしてはいるが、それによって、今晩のおかずの中身は変わらないし、寝る時間も変更はしない。つまり、悲観的なマクロ未来予測は、私たちの集団の未来には影響を与えるが、個人の人生の単位で考えると、さほど悲観するほどではない。

私たちにとって、アメリカ大統領が誰になるか?よりも、お米の値段やガソリンの値段の方が重要だ。お米の値段やガソリンの値段が、マクロな経済によって定められているとしても、自分の力でマクロ経済はなんともならないから、安い米を買ったり、車の代わりに自転車を多用したりするのだ。ある意味、我々はフレキシブルであり、小回りが利く。

第3次世界大戦や巨大地震で、日本が壊滅的な打撃をうける未来が予測された場合、個人であっても、さすがに恐ろしくなる。歴史を見ると、第2次世界大戦や関東大震災は、日本に甚大な被害を与えた。個人であっても、命を奪われた人もいれば、家族を亡くした人もいる。家や仕事を失った人もいた。しかし、生き延びた人も沢山いたのである。第2次世界大戦で辛酸をなめた人々の子孫の多くは、行動成長期を経て、マイホームで家族と仲良く暮らしている。また関東大震災で壊滅した地域には、現在とんでもない数の人々がなにごともなかったように暮らしている。

このように、歴史をみれば、暗い未来予測の先には、明るい未来も想定できる。同じことは、地球の歴史をみれば分かる。地球上では、約25-6億年前の原生代には全球凍結という、地球上の大半が氷に覆われ、生命にとって劣悪な環境に陥ったことが何度もある。その度に地球上の生物は劇的に進化し、全球凍結後には、全く新しく進化した生き物の世界が広がったのだ。また、約5億年前以降の顕生代には、隕石やマグマ活動で、地球上の大半の生物が死滅した大量絶滅が5回も発生している。しかし、その度に、一部の生命が生き残り、大量絶滅の後に大繁栄をしている。約6600年前の大量絶滅では、恐竜が絶滅したと言われているが、実は、恐竜の一部は、鳥類として生き残り、今も庭先でチュンチュンと餌をついばんでいる。

エマニュエル・ドット氏の絶望的な未来予測は、私たちの将来を不安にさせる。しかし、みんながみんな絶望的になる訳ではない。私たち一人一人は、以外と大丈夫かも、思っているかもしれない。心理学でいうところの「認知バイアス」なのだろう。災害対応などでは、「認知バイアス」は危険な兆候として扱われるが、個々の人間が生きていくためには、必要な能力だと思う。また、一人一人の人生は、以外と短い。マクロの未来予測よりも、短いのだ。マクロな経済や政治の動きは、私たち個人ではどうしようもない。私たちにできることは、毎日の小さな活動だけだ。この小さな活動が、世界の動向に影響を与える可能性はゼロだろう。でも、この小さな活動が、私たちの明日、あるいは今という時間の直後にやってくる新しい未来の連続(死ぬまで続く、私たち一人の生そのもの)には、非常に重要な役割を果たすはずだ。だから、私たちは、食べるし、寝るし、学ぶし、働くのだ。

マクロな未来は不安だ。でも、自分が決める自分の未来には、希望をもっていたい。ただ、それだけを伝えたくて、これだけの長い文章になってしまった。そして、最後にいつものように駄洒落を思いついた。「マクロな未来は真っ黒だ。でも、自分の未来を描く画用紙は真っ白なんだ。」