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【第76回】大学の自治 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話


1. 京大事件(滝川事件)

「大学の自治」という概念を理解するために、機関説事件とならぶ、学問の自由に関する京大事件(滝川事件)について振り返ることとしましょう。

1933年、文部大臣が京都大学総長に対し、法学部の滝川幸辰教授をやめさせるように、申し入れをしたことに端を発します。

京都大学法学部教授会は、学問的研究の結果として発表された、刑法学上の所説の一部が政府の方針と一致しないという理由で、教授が退職させられるようでは、「学問の真の発達は阻害せられ、大学はその存在の理由を失うに至」るとして、反対意見を提出しました。京大総長もまた、文部大臣の要求には応じませんでした。

そこで、文部大臣は滝川教授を休職にしました。「休職」といっても、当時の休職というのは、事実上の免官です。

これに抗議した法学部の教授たちは全員が辞表を提出します。その後いろいろな経緯があるのですが、最終的には、佐々木惣一、宮本英雄、恒藤恭、末川博、森口繁治、田村徳治および滝川幸辰という当時高名な7人の教授が、京都大学を退職しました。

この時の文部大臣の行為が合法であったかについては、議論があります。明治憲法には学問の自由の規定がなかったわけですし、休職処分について手続的には瑕疵はなかったのかもしれません。しかし、政治権力によって、大学の教授を、その学問的所説のみの理由に基づいて、事実上免官するという行為は、学問の自由に対する侵害であったというほかありません。

2. 大学の自治の内容

京大事件などの教訓から、学問の自由を十分に保障するためには、大学の人事に関して政府が介入しないことが必要です。

最高裁も、いわゆる東大ポポロ事件判決(最大判昭和38.5.22)で次のように述べています。

「大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の自治が認められている。この自治は、とくに大学の教授その他の研究者の人事に関して認められ、大学の学長、教授その他の研究者が大学の自主的判断に基づいて選任される。また、大学の施設と学生の管理についてもある程度で認められ、これらについてある程度で大学に自主的な秩序維持の権能が認められている」。

「学問の自由」の保障には、官立大学は、資金提供者である国、つまり政治から介入を受けやすいことにあった、という歴史的背景についてはすでに触れました。

しかし私立の大学も、私学助成金なしに大学を運営することは困難であって、政府からの介入の可能性は否定できません。学問の自由を保障するということは、政府は学問に対して、「カネは出すけれども口は出さない」姿勢が求められる、ということもその内容になっているものと考えるべきでしょう。

3. 学術会議問題

日本学術会議は、日本の科学者の代表機関と定められ(日本学術会議法第2  条)、昭和24年に設立されたもので、法律上「独立して職務を行う」こととされています(日本学術会議法第3条)。会員は定数210人。自然科学や人文科学各分野の優れた業績を持つ学者が推薦された中から学術会議の委員会で候補を選考し、内閣総理大臣が任命することとなっています。

菅首相(当時)は2020年秋、会議が新会員候補として推薦した候補者105人のうち安保関連法に批判的といわれた6人を除外して任命する異例の決定をしました。

この問題について、委員の「任命」は内閣総理大臣が行うのだから、任命をしないことも適法である、という見解に対して、いやいや、任命という用語が用いられているが、これは形式的任命であって、拒否はできないのだ、ということが争われています。法律制定の経緯からいって、後者が正しいと私は思うのですが、この議論は、機関説事件における学説の当否や、京大事件における休職処分の適法性の問題に似ていて、そこが本質的な問題ではないように思われます。

大学の自治が保障されるべきなのは、「大学」という組織だからなのではなくて、学問の自由が保障される研究者による組織だからではないでしょうか。そうだとすると、学術会議という団体にも、人事権などが、政府によって干渉されないことが「独立して職務を行う」ために必要でしょう。

ここに、「干渉」とは、自治が認められる趣旨からすると、メンバーの解任という積極的な介入だけでなく、任命拒否という消極的な介入も含まれるはずで、百歩譲って任命拒否が適法であったとしても、憲法が学問の自由を保障した趣旨に反するというべきでしょう。

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