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ヒトが単細胞になるとき

知的と思えるような行動をとるのは人間だけではありません。たったひとつの細胞からなる粘菌だって、迷路の最短経路を探し出したりします。こういった行動は、粘菌が置かれた環境のなかで生き抜くための原始的な知性のようなものだと考えられます。
中垣俊之著、ヤマケイ文庫『考える粘菌 生物の知の根源を探る』では、単細胞の粘菌を通して、そのような生物の知性の出自に迫っていきます(※本記事は同書籍の第1章「単細胞の情報処理」からの抜粋です)。

(前回の記事はこちらから)

細胞は生命活動の原点

細胞は、最小の生きたシステムです。そして、すべての生物はこの細胞なるものが集まってできていることを素直に考えてみますと、個体の生きる活動は、突き詰めていくと生きた細胞の働きにたどり着きます。細胞は物質の集まりですので、細胞の成り立ちや働きは、物質の法則にのっとって生み出されているはずです。

細胞は、それぞれの置かれた場所で生きる力を持っています。いわば、「置かれた場所で咲く」力とでも申しましょうか。それは、時々刻々と移り変わるその場そのときの状況に対応する能力ですから、細胞自身の状態が時間とともにどのように変わっていくかを捉える必要があります。物質の法則、とくに運動法則が鍵なのです。細胞の形や働きを、物質の運動方程式で捉えることが、細胞情報処理に肉薄できる有力な手立てだと思います。

細胞は、「一つのシステム」としてのまとまりがあります。このまとまりはどのように物質の運動法則から生み出されているのでしょうか? 生命活動は毎日私たちの目の前で繰り広げられているにもかかわらず、その目に見える現象の背後にあってそれを突き動かしている運動法則はまだまだ多くの謎に包まれています。

一方で、物質の運動法則については、日進月歩の理解が進んでおりますから、運動法則から切り込んでいくのは自然な糸口だと思います。そんな考えに基づいてこの本は書かれています。そして、その考えを具体的に押し進めてきた研究で扱われてきた生物の一つが粘菌なのです。

ヒトが単細胞になるとき

単一細胞の行動能力という視点にたってみると、私たち自身の体を見る目もそれなりに変わってきます。私たちヒトの体はたくさんの細胞が集まって構築されています。しかも、どの細胞も同じ遺伝情報を持っています。なぜなら、元は受精卵という一つの細胞から細胞分裂を繰り返してたくさんの細胞をコピーしてきたからです。コピーされてできた細胞がやがて分化して多様な性質を発現し、お互いに役割分担して協調するようになって一人のヒトという個体、つまり多細胞性個体ができあがります。このように、同じ遺伝情報を共有する多細胞性個体をつくるには、一旦単細胞になる必要があります。

ヒトという個体の始まりは一つの細胞です。その大元の一つの細胞をつくりだすのは、二つの異なる細胞である、精子と卵子です。精子と卵子は、単細胞性の個体といってよいでしょう。世代交代の重要な場面で、ほんの短い時間ですが、ヒトは一旦単細胞性になります。

ヒトの精子は、膣の中を卵子の方に向かって泳いでいきます。このとき、遺伝情報の異なるたくさんの精子が一緒に泳ぎます。液体とも固体ともつかない粘液の中を、鞭毛という細長い尻尾のような突起物を動かして、決して平坦ではない道のりを、精子にとってはまさに果てしなく遠い距離を泳ぎ続けるのです。

そのときには、お互いに協力しながら、また一方で競争しながら、泳ぐといわれています。一つの精子に注目すれば、困難な状況で卵子に到達するまでに、その場そのときで泳ぎ方を調節しており、この意味において、精子も情報処理をしているといえます。

精子の遊泳は、らせん軌道を描きます。鞭毛を動かすとき、旋回する力も生じるからです。旋回遊泳なんてとても特殊な泳ぎ方だと思うのですが、じつは単細胞性の原生生物が繊毛や鞭毛で泳ぐときにはごくふつうに見られる遊泳方法なのです。

そして、精子の鞭毛は、原生生物の鞭毛や繊毛と同じものであることがわかっています。分子的にみると、どれも同じタンパク質でつくられた同じ基本構造を持っています。その構造は、9+2構造と呼ばれています。これらの意味において、精子の旋回遊泳は、原生生物の旋回遊泳と深いつながりを持っています。

原生生物は、彼ら自身の生息環境で巻き起こる困難な状況においても、この旋回遊泳を巧みに調節して彼らなりに上手に生き抜いています。原生生物のもつ旋回遊泳の巧みさは、精子の旋回遊泳にも引き継がれているのではないかと思います。

細胞の情報処理を突き詰めていくと、単細胞生物のみならず多細胞生物の理解も深まります。生命現象の非常に重要な一面が解き明かされます。細胞は、驚くべき共通性をもった生命の基本単位なのです。


単細胞の粘菌を通して、
生物の“知性”の根源に迫る!

内容紹介

生物が知的であるとは、どういうことでしょうか?

単細胞生物の粘菌は、脳も神経系もないにも関わらず、迷路の最短経路を探し出したり、人間社会の交通網にそっくりのネットワークを作り上げてしまいます。
「遭遇する状況がどんなにややこしくて困難であっても、未来に向かって生き抜いていけそうな行動がとれる」
知性をこんなふうに捉えてみると、単細胞の粘菌でさえも、その場のややこしさに応じた知的と思えるような行動をとるのです。

このようなすぐれた行動が、単細胞の粘菌からどのように生み出されるのか。私たち多細胞生物にもつながる「知的なるものの原型」を粘菌に探ります。

※本書は二〇一〇年五月に発刊されたPHP サイエンス・ワールド新書『粘菌 その驚くべき知性』を加筆修正のうえ、文庫化したものです。

著者紹介

中垣 俊之(なかがき・としゆき)
1963年愛知県生まれ。北海道大学電子科学研究所教授。
粘菌をはじめ、単細胞生物の知性を研究する。
北海道大学薬学研究科修士課程修了後、製薬企業勤務を経て、名古屋大学人間情報学研究科博士課程修了。
理化学研究所基礎科学特別研究員、北海道大学電子科学研究所准教授、公立はこだて未来大学システム情報科学部教授を経て2013年より現職。
2017〜2020年北海道大学電子科学研究所所長。
2008年、2010年にイグ・ノーベル賞を受賞。著書に『粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う』(文春新書)、『かしこい単細胞 粘菌 』( たくさんのふしぎ傑作集) など。


目次

まえがき

第1章 単細胞の情報処理

細胞と核とゲノム
細胞のモノとココロ?
単細胞の動物行動学

生きものの情報処理
意図的行動の特質

細胞は生命活動の原点
ヒトが単細胞になるとき

第2章 粘菌とはどんな生きもの?

ライフサイクル
収縮リズム
味覚
嗅覚・視覚・触覚ほか
発育をうながす環境
モデル生物としての粘菌

第3章 粘菌が迷路を解く

ちょっとした困惑──餌があっちとこっちに
最短経路の生理的意義
短い経路を選ぶ──迷路でも?
適応ネットワークモデル
付録──粘菌解法の数理モデル
行動の多様性
粘菌解法の生物らしさ
粘菌が解いたといってよいか?

第4章 危険度を最小にする粘菌の解法

危険度が非一様な空間での経路探索
危険度最小化経路
海水浴場のライフセーバーの問題とスネルの法則
粘菌の解法──適応ネットワークモデル再び
付録──モデルのもう少し具体的な説明
粘菌解法の応用──カーナビゲーションシステム
組み合わせ数の爆発の恐ろしさ
フィザルムソルバーの特質その1──大雑把さ
フィザルムソルバーの特質その2──渋滞への適応性
粘菌の適応ネットワーク形成のアルゴリズム

第5章 両立が難しい目的をバランスさせる粘菌の能力

シュタイナー経路
ネットワーキングのバラエティ
三つの指標
粘菌ネットの多目的最適性
粘菌の多目的最適化手法──適応モデル三たび
モデルのシミュレーション
関東圏の鉄道網を粘菌に設計させたら
地形のバリエーションを取り込む
粘菌とJRの不思議な類似性
シュタイナー問題への応用
適応ダイナミクスの共通性

第6章 時間記憶のからくり

周期的環境変動を予測することを示した実験
周期性の想起──実験その2
時間記憶能の生理的意義
時間記憶のからくり──共振
粘菌の多重周期性
一連振り子モデル
位相同期モデル
位相同期モデルのからくり
「エジプトはナイルの賜物である」

第7章 迷い、選択、個性

粘菌の逡巡行動を示す実験
ハムレットの逡巡
逡巡行動のからくり
先端部の雪だるま式発展
マッチ棒の延焼モデル
迷いとパチンコ

第8章 粘菌の知性、ヒトの知性

生物と物理
意識と無意識
高度な言語能力のなせる技
考えずに考える粘菌
知は環境の鏡
原生知能の行動力学方程式
細胞の不思議──微細藻類にみる旋回遊泳と多細胞性
多細胞生物へと受け継がれる単細胞の行動能力

あとがき
参考文献

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