つるが伸びる

ベランダで少ししおれていたゴーヤも、温かくなると元気になり、緑のネットに細い触角のようなヒゲをくるくると絡ませ始めた。試行錯誤して張ったネットはマス目のようになっている。マス目がある分、ゴーヤの成長が可視化されやすい。ある日なんかは、ひとマス分もツルを伸ばしていて驚いた。

私は原稿が思うように進まないときに、ノートにマス目を書き、原稿の全体を分割し、できたらマス目を塗りつぶすようにしている。それで原稿が素晴らしくなるわけではないが、マス目を塗りつぶすとだいぶ慰めになる。

ゴーヤがひとマス分も成長していた日は、原稿が思うように進まなかった日でもあった。私の代わりにマス目を埋めてくれたようだった。頼りない細いヒゲが、懸命にネットに絡みつくのを見ていると、ありがたい気持ちになった。

双葉から本葉が出て、その数が6枚を超えたので、摘心をすることにした。参考にしている園芸ユーチューバーによると、

「ゴーヤーは本来一本のツルで、ひとつの実を作れれば御の字」

なのだという。だけど、それだと緑のカーテンにはならない。収穫もできない。だからツルを途中で切る。そうすると脇芽が出てくる。二本のツルでしばらく成長させる。またツルを切る。また脇芽が出てきて、今度は四本のツルになる。

「切っちゃうなんて残酷ですけどね」

と園芸ユーチューバーは言う。そんなことないだろう、と私は思う。だって、ベランダのパセリやバジルを、私はいつもキッチンバサミでチョキチョキと収穫しているのだ。それに私たちはいつも野菜を切ったりちぎったりして、常日頃料理をしているんだから。

夕方、台所からキッチンバサミを持って、ベランダに出る。今日朝見たときよりも、ゴーヤは背を伸ばしている。

本葉を6枚数える。ハサミで切ろうとしているその先端には、まだ葉っぱになりきれていない若い芽たちが、ぎゅっと体を縮こませている。そこから突き出た細いヒゲは、まだネットに巻き付いておらず、風に吹かれて細かく揺れている。

「若い芽を摘む」

という言葉が急に頭をよぎる。文字通りだと思う。食べるために切るのとは、まったく異なっている。急に脈が速くなる。

私だってしたくてやっているんじゃないと、言い訳をするが、したくてやっている。すべて私の都合、私の責任である。言い逃れができない。

さっさと終わらせてしまおうと、ハサミを入れる。若い芽は抵抗もなく、ポトリと私の手の平に落ちる。長いヒゲが手の平をくすぐる。今にも動き出しそうで気味が悪くなる。もうひとつの苗にもハサミを入れる。さっきのよりも一回り小さな若い芽が私の手のひらに落ちる。

手に若い芽を乗せたまま、部屋に戻り、台所のごみ箱へ投げるように捨てた。

次の日、ゴーヤは相変わらず元気にそこにいる。切ったツルの脇から、たしかに新しい芽が出ようとしていた。生命力がすごいな、と口に出したが、しらじらしいなと自分に思った。

若い芽を摘むことは不可逆なのだ。でもたくさん茂ったら、そんなこともすっかり忘れてしまって、良かったことだけを思いだすのかもしれない。


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