【ドラクエⅤ】未プレイだけど映画観てめちゃくちゃ悩んだ話

※この記事は映画『ドラゴンクエストⅤ ユアストーリー』の、ストーリーの核心に関するネタバレを含みます。また、個人の感想ではありますが、ネガティブな意見があるためご注意ください。





映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』。
予告を観てからずっと気になっていて、ついに観てきました。

僕は原作未プレイで、そもそもドラゴンクエストというシリーズもまともにプレイしたことがあるのは、スマホでリメイクされた『Ⅰ』とGBの『テリーのワンダーランド』だけです。
また、事前に予告を観ただけで、それ以外の前情報は一切摂取していません。


いやぁ、それにしても、大変話題になっていますね…。
僕も観てから、ずっと悩んでいました。

この映画、一体どういう映画なんだろう、と。

映画のもつメッセージについて、めちゃくちゃ悩んでいました。


いつもだったら、観た映画に対してこんなにもうんうん悩んで記事を書いたりしないんですが、妙に引っかかっていたので、思考を整理するつもりで記事にさせていただきました。

基本的に僕は物事をいい方向で捉えようとする人間なので、ただ批判をしたいとか、作品をこき下ろしたいとか、そういうわけではないんです。
出来るだけ良いところは褒めたいし、批判をしたい時は「なんでダメなのか」考えて、自分が真に納得できたことだけを話したいし、可能な限りどうしてそういう作品になったのか製作者の意図も汲みたいという気持ちがあります。

だから、いつもだったら、ツイッターとかにただ感じたことを、ネタバレを控えて

映像はとても綺麗だし、キャラクターデザインも魅力的だし、演技もうまいし、プロポーズのシーン素敵だったし、音楽はまさしくドラクエって感じで良かった〜!
クライマックスとか、本当にただ驚くばかりで…面白かった!!

とまぁ、こんな感じの内容を適当に放ってるはずなのですが。
上の例も、最後の一文以外は本心です。

一応、大事なことなので強調しておきますが、映像はとても綺麗です。
スタッフの努力が伺えるような、大変素晴らしい映像です。
だから、お話そっちのけで、綺麗な映像が観たいだけの人には間違いなくおすすめです。

でも映画として肝心なのは、そのお話ですよね。

これが…うーん。



面白くない。

というか、原作未プレイの僕にはよく分からなかった、というのが実際のところ。

ネット上でも色々と感想が出ていますが、クライマックス直前まで、いわゆるダイジェストのような形で映像が進むのです。

話は飛び飛びで、特に冒頭の解説?のようなシーンがササッと流れてしまったがために、物語上重要であろうアイテムのことや、主人公にとって大事な登場人物のことが全く頭に残っていませんでした。

だからフローラやビアンカに再会したシーンも

「え、誰?!」

となってしまったし、ドラゴンオーブについても

「え、オーブ?失くした?てかどこで手に入れた?!過去?え?!」

となってしまったのです。
今、主人公がどこに向かっていて、何をしているのかは、流れを読んで、空気を読んで、「そういうことなのかな?」と推測で追いつく感じ。追いついた時には、シーンが変わって、また読みが始まる。
都度、細かいところに気が向いてしまって、キャラクターたちの心情にまで寄り添って、共感してあげられる余裕が僕にはありませんでした。

でも、それは原作を遊んでいない僕が悪いかもしれません。
かつてドラクエⅤを遊んでいれば、懐かしさを胸に懐きながら、補完しつつ観れたのかも。
(ネット上の感想をみていると、ドラクエⅤを遊んでいても、というか遊んでいるがために色々あるようですが…)

たとえ共感できなくてもフローラやビアンカは可愛いし、モンスターの造形や表情の豊かさは観ていて楽かったのは事実です。

それに、メタ的なことをガツンと入れ込んだ、作品構造としての面白さは一応あると思っていて。
敵が「魔王」から「謎のウイルス」に変わり、「勇者」が「一人のプレイヤー」になっただけで、構造そのものは「ドラゴンクエスト」っぽい感じだったり。
映画を観ている最中は、いきなりワケ分かんないやつが出てきて、えっ、ちょ、どうなんの!?っていうのを古典的なRPG作品である「あのドラクエがやってる」という驚きがあったり。

ぶっちゃけそれ自体は僕はありだと思いました。そういうチャレンジングなの嫌いではないので。

お話はたしかに面白くないかもしれない。
それでも、一本の映画の形としては一応理解できるのです。
ダイジェスト方式なのも、妙に主人公が軽薄な感じで共感しづらいのも、主人公がプレイヤーであることで、一応の理解はできると思いました。

それでも「この映画、一体どういう映画なんだろう」って僕が悩んでしまったのは、この映画のもつメッセージが一体何だったのか、僕には掴みきれていなかったからです。
というか、「良い方向で捉えたい」という気持ちが邪魔をしていて、受け入れ難かった…というのが、より正しい表現かもしれません。


きっと、この映画の本来のメッセージとして相応しいはずなのは「あなたのゲーム体験は決して虚構なんかじゃない」という感じだと思うんです。

ですが、今や世界的なゲームタイトルのドラクエが「虚構」だなんて誰も思っていないと思うんですよね。少なくともこの映画を観に行く人は。
いや、たとえドラクエじゃなかったとしてもそうだと思います。ゲームを楽しんで遊ぶ人には、それが「虚構」じゃないことは理解できると思います。

でも「ゲーム体験が虚構じゃない」という訴えは、映画の中で「ゲーム体験」を否定しようとしたウイルスと同じ立場の人間にするべきです。
ドラクエⅤの内容をダイジェストのように流して、懐かしさを燃料にしようとしている点で、この映画はドラクエファンか、ゲームやCGに興味がある人(そして、そういう人はゲームにも理解があるはず)にしか届かないでしょう。

あるいは、現在進行系で、社会的に「ゲーム体験」を否定するような風潮が高まっているのであれば、「ゲーム体験が虚構じゃない」という訴えをする作品が、人々の心の拠り所になるという可能性もあります。が、少なくとも僕にはそのような風潮への実感がありません。

つまり、この映画を観た人には、すでにそのメッセージは必要ないものです。


じゃあ一体、この映画で伝わるものは何なのか?


僕が、この映画を観て一番強く感じたメッセージは全く逆の「ゲーム体験は虚構なんだよ、いい加減大人になれ」だと思いました。


ラストのシーン、それまでお話に共感もしなかったし、1ミリも悲しくなかったのになぜか涙が出ました。

おそらく「スーパーファミコンでゲームを遊ぶ少年のエモい映像」が、「かつて必死になって遊んだ自分自身のゲーム体験の記憶」を、ふいに思い起こさせたのだと思います。
そうか、それを否定されたのか。それは嫌だよなぁ、と、その一瞬だけ、やっと、ついに主人公の気持ちと共感できたんです。
その瞬間だけは、映画の主人公に自分自身をトレースして、映画に感情移入して観ることができました。
(ただ、あそこは本当にずるい映像で、スーパーファミコンのカセットとか出てきてふーふーやってたら、泣くに決まってるだろっていう。どれだけ遊んだと思ってるんだ…)

でも、一方でこうも思いました。

ハッカーだかウイルスだか分かりませんが、そもそも、彼はなぜゲームを毛嫌いしているのか。
僕にそういうことを言う人は身近にいなかったので、その気持ちが分かりませんでした。

このあたりがもう少しでも描かれていたなら「大人になれ」という言葉に現実味があったし、あくまでも「キャラクターのセリフ」として片付けられたのですが…、状況があまりにもメタすぎる上に、その言葉の強さも相まって、僕にはそれがあまりにも印象深く、まるで「製作者の言葉」であるかのように感じられてしまったのです。


その後、主人公はウイルスを撃退し、もとの世界を取り戻しているので、あの世界における主人公の主張は守られたように見えます。

でも、本当にそうなのでしょうか?


一見、主人公の主張によって形成が逆転したように見えますが、実際はそうではありません。

本人の努力やその溢れる想いの強さによって超常的現象が起きて解決されたのであれば「主人公の力」で打開したと感じられますが、あくまでもあの状況を打開したのは「あらかじめ仕組まれたアンチウイルスソフト」であり、主人公はその力を借りただけに過ぎません。
だから、目の前の壁を乗り越えた達成感もなく、「虚構じゃない」という主張も補強できなかった。

スラリンとの出会いがもっとドラマチックに描かれていれば、もう少し納得出来たのですが、スラリンとの出会いはゲームシステム上限りなく必然であり(少なくとも映画ではそのようにみえる)、いかなるプレイヤーであっても、均等に機会が与えられていたとしか思えません。
であれば、ウイルスを撃退するプレイヤーは「リュカ」でも「ユア」でも「ミー」でも、全く関係ない誰でも良かったわけで……。

主人公には、顔も知らないやつのテキトーな否定を「自分自身の力で打ち砕く機会」が最初から与えられもしなかったことになります。
いや、ただ与えられなかったのならまだ良かったのかもしれません。実際は、皮肉にも「ロトの剣を奮う」といういかにもゲーム的な「疑似体験」を提供されたことで、一見、自分自身の力で打開したように錯覚してしまいました。

映像美がうまい具合に「なんとなく良い雰囲気」を醸し出しているがために、成り立ってしまっているように見えたのだと思います。

だから、「ゲーム体験は虚構じゃない」という主人公の主張そのものが虚構のように感じられ、「大人になれ」という言葉の方が強い意味をもってしまった。
そのように僕には感じられたのです。

最後の最後で、主人公の気持ちに寄り添えたと思ったのに、僕には、本当の意味で彼に共感することはできませんでした。
だったら潔くあの世界から去って、実家の押入れに眠るスーパーファミコンを引っ張り出すくらいして欲しかった。
かつてドラクエⅤに憧れた、今はくたびれた(かどうかは分かりませんが)サラリーマンとしての彼をもっと出して欲しかった。
その方が、よっぽど僕には共感できました。


ドラクエⅤというのが難しいお題だったのは、色んな方の感想を見てなるほどと思いました。

こういうメタい作品構造を取らせるということは、製作者の思惑が色濃く出やすいということでもあると思います。
だから、真に「ゲームが虚構でない」ことを主張したかったのであれば、違うやり方がいくらでもあったはず。観客の思い出を利用しているのだから、もっと慎重に扱うべきだったろうし。

そして結局は、巧妙に、一見いい話風に見せておきながら、「ゲーム体験」を否定したまま、撤回も打開もさせずに終わったのが、この映画なんじゃないか? と考えてしまいました。

ゲームが好きでこの映画を観に来たし、「大人になれ」みたいなことを言う人がいることも知っている。
それでもゲーム体験は僕にとって大切なものだし、それを再確認することができて良い映画だった。

と、いう感じのことを素直に言わせてほしかったのに。
こんな受け取り方が出来てしまったことに、僕自身、非常に困惑してしまって…

「この映画、一体どういう映画なんだろう」って悩んでしまったのは、そういうことです。


もし、もっと主人公に共感できていたら…敵の行動をもっと理解できる形で描いてくれたら…また違った感想になったのかもしれません。
映像は緻密に作り込まれていてとても綺麗だし。
スタッフが汗水垂らして作った映画であるというのは確かだと思うのですが、本当に……残念だな、と思いました。


…とまぁ、ここまで散々書いてきましたが、僕はこの映画を観て後悔はしていません。

映画を観終わったあと、お昼ごはんを食べながらiPhone版ドラクエⅤを購入し、ダウンロードしました。

ドラクエⅤを、正しい形で体験したい、と思ったからです。

もっとパパスとかヘンリーとかフローラとかビアンカとか、ゲレゲレとかスラリンとかあの世界の人々を、描かれなかったお話や思いを、もっと知りたい。
この映画に対してアツい気持ちをぶつけられる人がたくさんいる。それだけユーザーに深く愛されている作品を、遅まきながら自分も体験してみたい。
そこに「僕にとってのドラクエⅤ」があるのかを、確かめてみたい。

そう強く思わせてくれたという点で、この映画の意義はあったのかもしれません。

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