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自分を許せないのは自分なのに、誰かに許して欲しかった

大学生の頃、バイト先の友人に、
「いや、自己評価低すぎるでしょ」
といわれた。

接客業。デパート内の小さなお店の一角で、理不尽なお客さんに、私は怒られていた。
他のお客さんたちに、こんな姿を見られる恥ずかしさはあったけど、そのおじさんは理不尽極まりないことで怒っていて、私はそのことを理解していたので、恥ずかしさ以外の感情はあまりなかった。

こんな人間もいるんだなぁと思っていた。
(私は小さい頃から、自分の状況を俯瞰して眺める癖がある。そうやって自分を守ってきた)

レジにいて動けなかった友人が、お客さんの列をさばいた後に急いでこちらにきてくれて、2対1になった途端、おじさんは捨て台詞を吐いて去っていった。

私を心配するその友人に私は

「世の中には、あんなに最低な人間も生きてるんだって思ったら、こんな自分でも生きてていいのかなって逆に勇気をもらえた。」

というようなことを言ったと思う。本気でそう思っていた。
(今も「最低最悪なことをする人間」を見て、そう思うことが時々ある。その度に、「他人を見下して安心感を得る」という、他人も自分も侮辱するような考え方はダメだと反省している)

それに対する友人の返答がこれだった。

「いや、自己評価低すぎるでしょ。お前、人見知りで引っ込み思案なところはあるけど、別に、普通だよ。」

「普通」は私にとって、とんでもなく恐ろしい言葉で、それと同時に、とても嬉しい褒め言葉でもあった。

だけど、それを素直に受け止めることができないくらいには、自己評価が低かった。

小さい頃から「普通」といわれることが、自分にはうまくできなかった。
みんなが当たり前にこなす日常の何気ない動作が覚束なかった。

だから「自分なんか」と何度も思った。

「自分なんか」を何度も何度も心の中で繰り返すうちに、
「自分なんかにこんなことできるわけない」
「自分なんかがこんなことしちゃダメだ」と
自分を許せないことが増えた。

自分が自分に「自分なんか」のレッテルを貼って、いろんなことを諦めて、禁止して、許さなかったくせに、なぜか誰かに許されたかった。

誰かに許されたって、自分が自分を許せない限り、何の意味もないのに、そのことにはずっと気づかなくて、とにかく他者から許して欲しかった。肯定して欲しかった。良い評価が欲しかった。

だけど、良い評価だけをもらえることなんて絶対にありえないと知っていたから、誰からも何も評価して欲しくなかった。

そうして他人からの評価を避けるくせに、自分の中に他者の基準を置いて、他者と比べてたり、他者の目から見た自分を想像して、自分を貶めていた。

中学時代にそんな負のスパイラルを強固に作り上げ、息をするように無意識のうちに自分を貶める思考を繰り返し、強化し続けて生きてきた。

小さい頃から築き上げた自己評価は、一朝一夕ではなかなか書き変えられない。

20代、いろんなことがあった。
いろんな人と会って、いろんな本を読んで、いろんな言葉を知って、いろんな場所へ出かけた。
一進一退しながらも少しづつ、少しづつ、私は私がなりたい自分に変わっていったように思う。
今でも、自分を肯定できる日もあれば、自分が嫌で仕方なくて死にたくなる日もある。
他人と比べれば、まだまだ低い自己肯定感かもしれない。
だけど、昔の自分と比べれば、だいぶ改善してきたというのは確かだ。

ドラマチックで劇的な何かが起こって急に変わったわけではなくて、長い年月をかけて、本当に少しづつ変わってきたから、何が自分にどういう影響をもたらして、何をどう考えたのか、言葉にしづらいけど、覚えていることは、覚えているうちに、言葉にして残しておきたいと思う。

そんなことをこれから、思いつくままにnoteに書いていこうと思う。

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