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「伍魚福と私の変遷」その3〜経営品質との出会い〜

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1995年(平成7年)、阪神大震災を契機に、伍魚福に入社しました。

もともと想定していたキャリアプランとしては、あと5年程度は伊藤忠商事で経験を積んで退職し、MBAを取得する等してから、伍魚福に入って経営を、というようなイメージでした。

震災後のドタバタですから、そんな悠長なことは言っておられません。
1995年4月は、伊藤忠半分、伊藤忠を休んだ日に伍魚福半分という出勤体制でした。

5月入社後、取締役社長室長に就任(29歳)。
各部署で仕事を体験するとともに、役員会に出席し、営業と同行し、会社の状況を把握していきました。
経営企画的な立場だった、と言えるでしょう。

2年目、1996年3月の新年度から、取締役営業部長(30歳)。
社長(父)から、どうせお前がやるんだからやれ、というワンマンならではの指名です。
今から思えば、かなり乱暴な気がします(笑)。

社長(父)は、高校2年生の途中から、伍魚福で仕事をしてきました。
そのため、経理も、生産も、経営も、すべて本を読んで勉強したそうです。

日本リテイリングセンターにも入り、有名な渥美俊一さんの指導も受けました。スーパーの黎明期、たくさんの方がチェーン化を目指して集った組織です。
ニトリの似鳥社長もその信奉者として有名ですね。
ただ父は「珍味屋のチェーン化は無理」と言われて、頭にきて辞めたそうです。

経営コンサルタントの吉田先生(経営理念のnote参照ください)に長く指導をしていただきましたが、先生が亡くなり、指導は終了。

それ以後、本を読んで、その先生に直接電話をして依頼する等し、営業系を中心に様々なコンサルタントの先生にお世話になったそうです。
父は気が短いので、何年か依頼して、業績が上がらないと打ち切ります。

そして、また新しいコンサルタントを依頼し・・・、ということを繰り返していました。

新しいコンサルタントの方は会社のことを知りませんので、当然メンバーのヒアリングからスタートします。
2〜3年に一度、そんな感じでヒアリングがありますので、会社のメンバーも「またか」となりますよね。

私が入社してからもしばらくそんな繰り返しがありました。
それなりに勉強にはなりましたが、会社のメンバーにも
「コンサルにお金を払ってきてもらっているので、なんかいい知恵を出してくれるだろう」
というような、コンサル依存的な空気が流れていたように思います。

2000年から「自創経営」を導入し、部門経営者の育成を目指しました。
導入自体は、社長が「やる」と言ったからやる、というワンマンだったからこそ、一気にできたのだと思います。
その後、20年以上継続し、伍魚福の経営になくてはならない考え方となりました。

私自身は、酒販店の減少に伴う売上の落ち込みをどうカバーするかに忙殺されるとともに、経営とは何かを模索する日々を過ごしていました。
MBAを取得した伊藤忠の同僚を見ると、羨ましかったです。
MBAコンプレックスみたいなものでしょうか。

神戸ファッション協会の若手経営者の勉強会にも参加し、世話役の佐藤善信先生(現在は関西学院大学大学院教授)にお願いしてケーススタディを学ぶような形にしていただいたのもその影響です。

そんな中、2005年、社長からひょうご産業活性化センターの冊子が回ってきました。
「ひょうご経営革新賞」という表彰制度があり、その講演会があるので行ってみては、という話です。

淡路のムネ製薬の西社長(当時)が講演され、その後、ひょうご経営革新賞のための研修会があるという案内がありました。
なんでもやってみよう、ということでこの研修会に参加しました。

これが今に至る「経営品質向上プログラム」との出会いです。
私が現在社長として経営の任にあたることができているのは、「経営品質」を学んだから、と言えるでしょう。

明日以降のnoteはしばらく「経営品質」の話です。


最後までお読みいただきありがとうございました! 伍魚福の商品を見つけたら、是非手にとってみて下さい。社長のいうとおりになってないやないかーとか、使いづらいわー、とか率直なコメントをいただけるとうれしいです。 https://twitter.com/yamanaka_kan