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田舎の飲食店のリアル番外編 飲食店を始めたきっかけ

飲食の仕事になんか絶対就かねー!!

中学の時はそう思ってました。絵を描くのが好きだったのでそれが仕事に出来れば良いと漠然と思ってました。
東村アキコ先生の漫画「かくかくしかじか」を読んで、あれくらい描き続けなきゃ絵描きになんてなれないなんて、ガキだった僕は思ってもいませんでした。

実は親父もじいちゃんも料理人でした。僕が小学4年生くらいまでは地元の食堂をやっていまいたが、潰れてしまって親父がナイトクラブの料理を作るようになってからは毎日毎日夫婦喧嘩が絶えず(以前からあったけど)次第に親父を避けるようになり、親父の仕事も嫌うようになりました。

中学の時に無事両親は離婚。
僕は母親について行きどこにでもある母子家庭として普通にお金に困り、                                                          学校に行くお金もなくなりどこかで聞いたことあるようなエピソードのように高校を中退して働きながら絵の専門学校に行きました。

ここまで、全く料理の仕事なんてしようなんて思っていません。
ただ貧乏一人暮らしだったので自炊はしてました。
その辺の野草を取って食べてたこともあります。
北海道は食材の宝庫です☆

そんなこんなで絵の仕事に就けるわけでもなく、日々フリーターやら派遣やらで時間を過ごす毎日が続きます。
縁があって派遣元の会社に就職することが出来まして、フリーターから営業職に転身します。27歳の時でした。
スーツなんか着ちゃって、工場などを回って

「人要りませんか?」

の飛び込み営業とスタッフの管理に。なんか後半は総務の仕事も手伝わされて、そのおかけで会計のこともちょっと覚えることが出来た。

ますます飲食店から遠のいていく・・・

親父が死んだ

僕が30歳になった時には人材派遣会社の人を道具としか見ない環境に、心も身体も壊れかけました。多分壊れてたけど、条件反射で仕事をしていた感じでした。ゾンビだよね。

ある日知らない電話番号から着信があり出てみると三男のヒロからだった。こいつは一度極道になってからは縁を切って連絡を取らなかったけど、風の噂で足を洗ったとは聞いていた。それでも連絡を取ろうとは思わなかった。そのヒロからの連絡だ。
どうせロクでもない話だと思って電話を切ろうとしたら

「親父が癌で余命2ヶ月だ!」

というのだ。

極道から足を洗ったは良いが行く所がなく、住んでた街にいるとアニキ達の目があるので住み辛いと田舎に帰ってきて親父のところに居候していた。
あまりに肩や肺を痛がるので病院嫌いな親父を無理矢理連れて行ったらもう全身に転移しまくりで手の打ちようがない状態だったらしい。
肩が痛かったのは肩甲骨にまで転移していたからだそうだ。

久しぶりに親父に会ったが、やっぱり好きにはなれなかった。

お前のせいでどれだけ苦労したんだと思うと、今すぐにも殴ってやりたいが、今、目の前にいるのは病気で苦しむ1人の老人だ。
やり場のない感情が押しては引いていく。

親父に病気のことは言わないことにした。
札幌の病院に転院したら半年はもつかもしれないけど、次男が地元にいて孫娘に会えなくなってしまうのは可哀想だなって思ったのだ。
どうせ死ぬなら地元で死なせてやろうと。

札幌から毎週親父の様子を見に帰った。

ある日、ふと思ったんだ

本当にコイツ嫌いだけど、コックの仕事だけは最後までやり続けたなって。俺はフラフラなんの仕事に就いても長続きせず、その日暮らしな毎日。
自分にも親父と同じくらい嫌悪感があった。

全身ドレインだらけの親父に外出許可が降りた。死ぬ前の思い出作りってやつ。温泉が好きだった親父を連れてガキの頃連れってってもらった温泉に入った。
背中が濡れた和紙みたいにくしゃくしゃで、怖くて傲慢で頑固な親父はもうそこには無く小さくなった親父の背中越しに俺は言った。

「俺さ、飲食の仕事始めようと思う。いつになるかわかんないけど自分の店を持って自分の城を作るよ」

親父は小さく
「お前経験はあるのか?」
と聞き
「無いけど頑張るよ」
というと
「そうか、じゃ頑張れ」
と言った。

初めて親父と交わした約束。
昭和的に言うと
男と男の約束

ちゃんとした会話はそれが最後となった。

翌週にはもう話せないくらいに衰弱して
その1週間後に死んだ。

退職してまたフリーター

親父の葬儀も終わりアパートや遺品整理などひと段落した所で会社に退職届を出した。アジア料理が好きで特にタイ料理が好きだった僕は、30歳で初めての海外旅行がタイ、カンボジア、ベトナムへのバックパッカーだった。
そう、深夜特急の影響ですw
帰国して、カフェからカレー屋、居酒屋、バー、創作料理店、焼肉屋、ラーメン屋、沖縄料理店色んな料理を作って、けなされて、悔し涙を流し、仲間と笑って、仲間と喧嘩して、失恋したり、飲んだくれてうんこ漏らしたりしながら、北海道じゃないどこかでお店をやりたいなって思った時に、ふとテレビで見た沖縄の青い海。

沖縄かぁ、良いかも。
うん良いかも!

そんなノリで沖縄に来ちゃいました。

そして山ねこ料理店オープン

沖縄に来て働きながら物件を探そうと思い、条件に合った某リゾートホテルで和食の調理場に配属された。料理が作れればどこだってなんだって良いのだ。なかなか条件に合う物件が見つからず2年が経った頃、空き物件あるよと行きつけのスナックのママが教えてくれた。
その頃には国頭にも知り合いが少し出来てたし、自然やのんびりした環境がすごく好きになって、もうここでいっか!って思って決めちゃった。

そして2015年5月27日
山ねこ料理店オープンを迎えました。
僕は41歳になってしまい。
親父との約束から10年以上経ってしまった。

色々合ったけど

オープンして今年で9周年。10年目の節目に向かいます。
何度潰れそうになったけど、その度バイトしたり色んな営業方法や新しい料理を開発したり、しくじりやトラブルもあったけど、なんとかこうして続けていられます。
去年は本当に辞めようと思ったけどね。

今の若い子達に頑張れって言っちゃダメなんですってね。

まぁ人それぞれなんですけど、僕は精一杯死ぬ気で頑張って死ぬまで楽しく笑ってやろうと思います!
相変わらずまだまだ貧乏暮らしですが、料理は楽しい!
サラリーマン時代は上司もクライアントもスタッフもみんな怒っているのにお金が貰えるのが不思議で仕方なかった。
飲食の仕事はすごくシンプル。

料理作る

美味しい!

ありがとうございます!

お金が貰える。

料理がダメだったらお金は貰えないし、お客さんも来なくなる。
僕とお客さんが笑っていれば結果がそこにある。

このレスポンスの速さと分かりやすさがやっていて気持ち良い!

今日も美味しい料理作ります。
がんばります!

僕の手は不恰好ですけど
いつも僕を助けてくれて料理を作ってくれる
大好きな手です。


本当に短くて不恰好な手だなw

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