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全然自由にいかない創作のはなし


クリエイター的心理

私は4歳の頃から絵を描くのが好きでした。
最初は8色のぺんてるクレヨンを買ってもらって、広告の裏などに好きに描いていました。
ピンクが好きだったのに、ピンク色のクレヨンが入っていない。
だから、白と赤のクレヨンをグリグリやってピンクを作るのが常でした。
混色の概念を覚えたのはその時期です。
その後は、色鉛筆、マジックペンなどにも興味を持ちました。
壁に落書きはしません。
クレヨンは裏写りするし、紙からはみ出るとテーブルが汚れるからと下に大きい広告紙を敷いてお絵かきしていました。
最初だけ親に教えて貰って、あとは自発的に行っていました。

幼稚園くらいの認識では、微細な色の違いが分別出来なかったりします。
黒の色鉛筆で線を描いたと思ったのに紫色だった、なんてのはよくあることでした。

子どもがぐちゃぐちゃに色を塗るのは、色の判別に至るまで脳細胞が育っていないからです。

その頃は、何度気をつけても黒と紫の判別が紙に描いてみるまで分かりませんでした。
そしてしばらく経って、色鉛筆のお尻の芯を見て区別をつければよいことに気付いて、黒と紫の使い分けが出来るようになりました。

誰に報告する訳でもないですが、そのように地味に研究する心を幼児期に養っていたようです。
小さな、当たり前と思える研究、ライフハック探しは、現在までずっと続いています。

小学校3年生くらいから、大学ノートに漫画を描き始めました。
適当にキャラを作って、それっぽくストーリーを作っていきます。
起承転結なんてありません。
それまで見てきた漫画やアニメなどの模倣が基本です。
しかし、完全には真似をしません。
あくまで「或り方」つまり考え方のみ採用して、自分の思う世界を紙面に描いていました。

おかげで、絵が全く上達しませんでした。
手っ取り早く画力を上げるには

  • 模倣

  • デッサン

この二つを重点的に行うしかありません。
短い人生。
絵の上達にかける時間と創作活動にあてる時間は、どちらか片方は少ないほうがいい。
描きながら上達していくのが効率的です。

下手でもなんでもいいから描け。
描いていく内に上手くなるから。
そして過去作を修正しようとするな。
資料として扱え。

漫画の描き方講座に、必ずと言って良いほど出てくる文章。

上手くかこうとしようにも限界があります。
ある程度は妥協して、とっとと発表に至らないといけない。
未熟な部分を隠したい心理はよく分かりますが、未熟と思われるそれこそが重要な価値のある部分なので残しておくべきなのです。

見返すでしょ?
ここをこうしなきゃって思うでしょ?
胸に刻みますね。
忙しさにかまけて忘れますね。
もう一度見直して、初心に帰ります。
段々、未熟さが恥ずかしいと思う心が薄れてきて良い思い出になります。

それが、自分の作ってきた経歴。
奇跡みたいな軌跡。

心残りも成功体験も、全部自分の宝物だよ。

いつかそう思えれば、御の字です。

発表後の未熟さが残る作品も、この雰囲気が良かったと言ってくれる人が必ずいます。
世界中の全てがアンチになったなら修正すべきですが、普通はそうはならないので、一人でも良いと言ってくれる人がいる限り、そのままにしておくべきです。
再掲はオールオッケー!!


キャラを動かせない

創作活動は一種の憑依のような現象が起きます。
「こういう話を描きたい」
と思っても、いざ描き始めると全く思うようにいかない。
なんでこんな重い展開になるの?
もっと軽いノリの話にしたかったのに。
それは、キャラが自我を持ち始めたせいです。
不思議なことに、紙面上の架空の人物が自らの意志を持って行動しようとしてくるのです。


漫画の展開が思うようにいかなかった例

この漫画を描いた時、私は「メダンはワガママ過ぎるし、甘やかし過ぎるのは良くないなあ。チョコで我慢しろよ」と思っていたのです。

しかし、エースはメダンの癇癪に応えてコーヒーを淹れてあげています。

「うわっ!エース優しい!」
となりました。
自分で描いているにも関わらず。
エースは心が広いのですね。

描き手と創作のキャラの意志は、必ずしも一致しないという例です。

創作をする人なら、必ず起こる現象と思われます。

「キャラが動かねえ〜動かねえ〜」
とブツブツ言いながらクリエイトを続けるのです。

話がぜんぜん進まない。
ということは、そういう話だということです。

今月号のアカギ、牌を切るだけで終わったぞ!
という感想を目にすることがありましたが、登場人物の中では緊張感が高まりすぎて時間が止まったかのように感じられるため、それで正解なのですね。

それは心理描写の一種とも見れます。
作者様にキャラクターの意志が乗り移っているので、どうしようもありません。
ただ、描くだけです。

小説とコミカライズが微妙に違う、というのもそれです。
媒体が違うので、同姓同名の別人の話になっているため。

「薬屋のひとりごと」という作品は、コミカライズ作品が二つもあることで話題になりました。
表現の比較などが検証されたりしていますね。

原作小説
コミカライズ1
コミカライズ2
アニメ
とありますが、それぞれ少しずつ違う。

世界線が違う為ですね。
猫猫はパラレルワールドを生きています。
何故か。

それは、壬氏というキャラが神霊的な視点から見て特殊な地位にあるからです。

謎の宦官 壬氏
とありますが、猫猫が勝手にそう思っているだけで、実際はそうではないですね。
まだ設定が全て明らかになっていませんが。

宦官というのは、去勢した男性を言います。
科挙に合格して王宮に仕えることになった男性は、宮廷の女性と関係を持たぬように陰茎を切り落とされます。
この方は十中八九、陰部を落としていないです。
生えています。

未だ謎に包まれ…というか大体想像がつきますが、この人は神霊界に実在します。
白梅の君 という名で。

時代をあちこち飛んで、勉学に励んでいるという。

その力はあまりにも強大で、彼の方が出演する作品は何故か「増える」
多くの人はストーリー構成と、ざっくばらんな猫猫の性格に惹かれて作品を楽しんでおられると思われますが、裏で糸を引いているのは壬氏に取り付いた霊体というカラクリ。
そういうものです。
舞台の真ん中で踊るプリマドンナを大衆は見に来ていますけれど、惹きつけているのは実は群舞、キャラクター及び舞台裏で活躍するスタッフたち。

薬屋のひとりごとが人気を博したのは、しらうめパワーの影響に民衆が惹かれたから。です。

作者の思惑とはまるで見当違いな方向に転がっていく。
それが創作ってもんです。

プロットを作っても、プロット通りにはいかないぞ。
何故だ。。。
キャラを主体にするからです。
ストーリー主体にすれば、プロット通りの作品が完成します。

薬屋のひとりごとは、ストーリー主体の物語と思われます。
トリックを解いていく話ですので。
重点が、事件に置かれている。
人身描写は後回し。


パンツァーとは戦車という意味

とにかく上手くいかない
を前提に創作活動に励みます。

気持ちばかり急いて、表現が追いつかない。
もったいぶり過ぎて読者に伝わらない。
支離滅裂に見える。
テーマがぼやけている。

それも芸風ということにして、頑張って完成を目指します。
途中で筆が止まってしまったら、キャラの降霊効果が途切れてしまったということ。
そうなったら、ムリヤリ打ち切るべきです。

俺たちの冒険はこれからだ。
という万能オチを使って、尻すぼみでもなんでも終わらせます。
謎キャラは謎キャラのままで良いでしょう。
実は魔王だった、とかするのもいいですけど。

キャラ主体の物語は、パンツァー型でいくのが望ましい。

「俺がお前の姿を描くから、自由に動けよ」
それでスイスイ描ければ降霊術の成功です。
動かなければ、自分の願望をキャラに叶えて貰っているということになります。
つまりそれは自己投影の姿。
変身願望ですね。

何がどうなるかは分かりません。
ただ、自己投影作品、主にエッセイ系は筆がスイスイとノリます。
自分というモデルが近くにおりますので。

キャラと作者の人格は別物、と良く言われますが、この辺りがネックになっています。

作者が自分を描いているのか
降霊術を行っているのか

その違いです。

薬屋のひとりごとの猫猫は、自己投影な気がしますね。
作者さんの願望がカタチとなっている。
故に、猫猫はどこか冷めて大人びているのです。
キャラにはどうしてもモデルが必要ですので、それも良いと思います。
キムタクが出演する作品は、何がどうなってもキムタクにしかならない、みたいな。
ハウルの動く城のハウルの声はキムタクですが、ファンタジーの世界に生きているキムタクです。
ハウルもキムタクの人格の一つになってしまった。

ちな、私の個人的好きなジブリ作品ランキングで、ハウルの動く城はベストスリーに入ります。
コクリコ坂からと紅の豚が首位争いをしていますが。

創作は全然簡単ではない

創作は降霊術だと思えば、難易度はグーンと上がります。
祈祷しようが滝に打たれようが行脚に励もうが、描けないものは描けません。

昔と比べて美麗イラストを描く人が格段に増えましたので、漫画の画質は上がりました。
しかしストーリーの質はあまり変わっていません。

良いものは良いし、パッとしないものはしない。

ストーリーの雛形みたいなものは存在しますが、その中で活躍するキャラがノッてくれるかどうかは別の話。
ドラマ制作みたいですよね。
話とキャラは別物。

ストーリーを量産するためには、企画に参加してくれる優秀なエキストラ、男優・女優の霊を呼ばねばなりません。

多くの人がネット小説などを発表していますが、自分も書きたいけど書けない…と思ったら、エッセイを書くことをおすすめします。
自己投影のキャラです。
世にあふるる、異世界小説の殆どは自己投影型が多いです。
筆者本人がチートな肉体を設定して、好き勝手に夢想しているのですね。

設定なんてどうにでもなります。
どこかから拝借すればいいのでしょう。
現に、ネットコンテンツの登場人物は名前の流用が激しい。
「またこの固有名詞か…」
みたいなのばかり。
しかし、書きたいものを書けってそういうことです。

私はもう、キャラの名前やら地名やらを考えるのが面倒くさすぎて、超適当になっています。
たまにAIに訊ねたりします。
パッとしなくて、結局駄目。
海外小説の傾向から演算しているのかしら?
つまんないな。

というわけで、既にエッセイは書けない状態になっています。
誰かにモデルになってもらっている。
だいじMANしぶりんぐはそうです。
歌を下敷きにしてますが、連想から取っています。

点質情報から精神球の広がりを受容し、自己精神球に組み込み調整質5のエネルギー支点を照らし合わせて、対象の次元に合わせた精神世界をヒルベルト空間上に展開していく。
みたいな感じ。

パンツァーです。

タロットのチャリオットの心。

正位置の意味
勝利、征服、援軍、行動力、成功、積極力、突進力、開拓精神、独立・解放、体力無限大、負けず嫌い、視野の拡大、ゾーンの発動、優勢、自己暗示。

逆位置の意味
暴走、不注意、自分勝手、失敗、独断力、傍若無人、焦り、挫折、イライラ、視野の縮小、好戦的、劣勢、無知。

正位置は自分。
逆位置はキャラクターの自我。

キャラクターは、紙面上にて人生を開け出されてイライラしがちです。
だから、出来るだけ意に沿った展開にするのが望ましい。
めちゃくちゃ怒られます。
成人向けなんか特に酷い。
あとで出演料を払いましょうね。


創作について思うことでした。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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