見出し画像

人間型ゲシュタルトとは


AIと人間の違い

先日書いた記事の続きです。

AIはアホの子なので人類の脅威になることはない。
AIが人間と同等それ以上になるには、人造人間キカイダーに出てくる良心回路が必要、と書きました。

先記事の可愛いアンドロイドの絵(しかし、よく見たらサイボーグとあった)がいたく気に入っていまして、何度も見つめています。
そうしている内に、ふと。

人間になるために必要なもの。
AIと人間的である要素の決定的な違いは倫理観の有無であると気付いたのです。

ChatGPTは、教えたことをどんどん学習していきます。
しかし開発途中のある時期、一般論とかけ離れた陰謀論や差別意識を教え込んだところ、AIはそういった認識を抵抗なくすんなり受け入れたらしい話があるのです。

水を吸うスポンジのように、全ての知識を飲み込んでいきます。
それが人工知能というものらしいです。

この件については、開発者の一団が洗脳に気付いた為、その部分は削除されたそうです。

認識一つ、インプットを続けるのも人力である必要があるという情けない状態。

AIの出来ること
情報のインプット
結果生成アウトプット

AIのすること
ヒデン
表面上の手順第一段回の組み立て

人間のすること
ヒデンレイヤーの細部調整

人間がしなければならないこと
インプット誘導
アウトプット準備

AIは結局、ツールの一つの域を出ないということになります。
使うもの。
意志がないのも同じ。
酷使しても文句一つ言いませんし。
中に人が入っていないのであれば。

ゲシュタルトとは

ゲシュタルト(Gestalt 独)
ゲシュタルト心理学の基本概念。
全体を部分の寄せ集めとしてでなく、ひとまとまりとしてとらえた対象の姿。形態。

noosologyにはゲシュタルトという言語が出てきます。
これにはヒトとしてあるべき姿のテンプレートという意味が含まれ、

人間型ゲシュタルトから
変換人間型ゲシュタルトへ
トランスフォームせよ

という一つの目標が掲げられているのです。

どういうことかというと、点質を基としたヒトの元情報からトポロジー変換、つまり転生であらゆる姿形になっても耐えられる、柔軟な人間であれ。
ということになるのですが、どうもその辺りの理解が進んでいないようです。

魚の人生を歩むことになったら、魚として美しく生きよ。
猫の人生を歩むことになったら、猫として可愛らしく生きよ。
人間の人生を歩むことになったら、人間として規範に沿って生きよ。

生態系ピラミッドの中では、人間という生き物は頂点に立っていると言われています。
それは、厳しい大自然に立ち向かう為の強靭な牙、柔らかい毛皮、柔軟な筋肉を持っていないため、智慧を振り絞って生きることが定められた動物として最難関の生き方を求められるからです。

何もない地に放り出されて、生きていけるヒトは皆無です。
火を起こすのも、水を飲むのも難しい。

動物はなんとかなるでしょう。
その辺の水を飲んでもピンピンしていますし、その辺の草を食べて生きていけます。
肉食動物は少し辛いかもしれない。
植物なら、動物よりももっと簡便に生を紬ぐことが可能。

生物学的に、人間より動物、動物より植物の方が何千倍も強靭にして逞しく、優秀であると言えます。

それでも、その辺の草を雑草、動物を畜生と呼び、嘲るのが人間。
智慧を持つのがそんなにえらいのか?
という疑問を持つ人も少なくない筈です。

アミニズムは万物に生命が宿るという考え方ですが、これに通ずるものがあります。
何もかもが生きているのだから。
動植物を始めとし、全てが生きたものだから。
だから、共存すべきである。
という。

ジャイナ教は肉食を禁止し、不殺生を掲げております。
不完全なアミニズムと言えましょう。
植物に命がないという答えでいいですか?
霞を喰って生きる。
それすらも生きるために殺すことになりますので、自らが空気になるしかないですね。
空気なら、勝手に化学反応を起こすだけで不殺生でいられます。
質量保存の法則により、現界に存在する原子の数、素粒子の数は量が定められて決まりきった分しかありません。


ゲシュタルトの順位を考えると、こういったことまで思考が広がっていくのです。
この思考の広がりが、ワンネスの入口となります。
キアスムとは、互いがワンネスを持つことを前提とし、共存し合う為にどうすればよいのかと模索をし「それなりに良くする」つまり等化現象を起こすことを言います。

人間型ゲシュタルトから
変換人間型ゲシュタルトへ
は、動植物のピラミッドの頂点に立つだけでなく、ピラミッドの底の次元まで全てを理解し、どのような環境にも順応出来る、それが可能となるようなキアスムを完全に踏破した存在となるべし、ということになります。

人間型すら、非常に難しい。
自然保護だの、絶滅危惧種の懸念だの、そんなことを議題として掲げている時点で話になりません。

生きるために木を切り倒して何が悪い。
脅威から逃れる為に動物を狩って何が悪い。
でも、限度はあるよねえ。

その辺の塩梅をうまく理解出来ないことには、人間としての資格がないのです。

それはつまり、変換人間型ゲシュタルトにすらなれない。
または別の意味で変換人間型への転換を覚悟し、新しい選択肢を考慮せねばならないことを意味します。

既に神霊界ではこういったゲシュタルトの問題の解決策を得ています。
それが
Zの楽園
と呼ばれる地です。

新性縄文時代とも言えましょう。
スピリチュアリストがしきりに「縄文」「縄文」と声高に訴えているのは、この未来の楽園の存在の予感を感じとっているのです。

[2013]世界はグレンとひっくり返った 反転の創造空間

という半田氏の著書の紹介文に、興味深い記述が羅列されています。

水星人のMANAKAというのは、本当に水星人とアクセスされた方なのだと思われます。
水星人とのアクセスというか
マヤ20以前の認識の世界の水星次元の認識のゲシュタルトにある人
という方が正しいかもしれません。
認識のテンプレートの持ち主は、かならずしも現行の宇宙の水星に存在する生命体ではありません。
大抵の人は、人型・ヒューマノイドをカタチ取った地球人に近い姿を想像するかもしれませんが、それはあくまでイメージの世界。実際は水星に生き物は存在しません。

セフィロトツリーが基準となって、ゲシュタルトを認識判別出来ます。

上記の図の、3番目の認識を強く持った人、という意味になるでしょう。
そこで六星などの占いを持ち出すのは誤りです。
あれは判断基準が曖昧なので、必ずしも一致しません。

その辺は、自称○○星人、で良いと思いますよ。
四次元を察知する直感が働けば、自然とそうなります。

ネオ縄文スピリットの持ち主は、半霊半物質人の変換人、というのはわりと当てはまっていますね。

霊界にて、ズルズルしたマントを身にまとって、ホワッとした光を纏いながらフワ〜ッと移動する想像上の神様みたいな存在になるのだと思う人もおりましょう。

そういうのは、コスプレファッションの領域を出ないものです。
そういう出で立ちをしたいというのなら自由ですし、希望すれば天人・天女がそれっぽく用意してくれるでしょう。

普通なんですよね。
全ての生き物はみな、死後は仏となり天使となり、次元が高い人は天人・天女となって三千世界の全ての世話係として下働きに従事します。
次元が高い人が実は全ての魂に使役される役割を持つという、天の仕組み。
(無理強いはないです。完全希望制のボランティア)

仕事嫌だな・・・と思う時点で、実は自分が天上の存在にはなり得ないと自己紹介しているようなものなのです。
人間の域を出ないという意味。
限度はありますけどね。
その辺の模索と塩梅の理解が、脈性観察子の領域となります。
すぐに白黒思考、両極端なことを言い出す人は、まだまだ未熟。
ヒトとしての振る舞いが出来ない時点で、(プロテスタントが基本です)休息を取るべき状態であると判断されます。
すぐに贅沢漬けルートに直行です。

天上天下の基準です。
天上(仕事人間となるか)
天下(天の仕組みの下でのんびり過ごすか)
そこで唯我独尊をどう受け止めるか、どう唯我るのかを考えます。

同じような人は掃いて捨てる程おりますので、そういった意識の集合体、分布図がやがてテンプレート化し、ヒトガタ、性格傾向となりゲシュタルトへとトランスフォームしていきます。

変換人間型とは、テンプレートを作る魁の存在、というのが最も適切でしょう。
型に嵌らず、マイノリティですので。

υ の式が変換人

オコツトの言葉はわかりにくい。
不親切です。
これは変換人として非常に良くない。
試練になってますね。

人間とはなんなのか

ゲシュタルトの考え方を大雑把に踏まえたところで、AIに話を戻します。

AIと人間の決定的な違いは倫理観の有無と書きましたが、そもそも倫理ってなんなの?と思いますよね。

それは、哲学する心です。

あらゆる哲学者・思想本を手に取り、世界とは、人間とは、存在とは何かを考えます。

AIはインプットされた知識を飲み込むだけ。
教えられた通りに、禁止ワードをくぐり抜けて計算結果をアウトプットするだけ。

そこには真の意味での善悪の判断力なるものが大きく欠けております。

哲学する人間。
考える人間。
状況に応じて、厳正なる判断をします。

基本は生かす。
場合によっては死なす。

モラルは必ずしも倫理観とは一致しません。

絶対的な正しさは存在しない。


wikiより

人間の意識は、常にディラック定数が発動しており、周囲の空間を飲み込み続けているのです。
その原動力となるのが虚数空間。

周囲の空間とは、これ即ち「知」そのものと言えます。
その部分だけ見れば、人間はAIと変わらないのです。
インプットをし続けている。
見聞きした情報が脳に侵入を続けます。
生きている限り。
意志が存在する限り。

これが苦痛であるという人には、死後の世界で何もない空間を差し出されます。
「いらん情報を全て断った。そこで気の済むまで休息を取ってください」
という。
死=無という認識の人は、ここに放り込まれるのが嫌だと思われているのでしょう。
安心してください。
完全希望制です。
誰かから又聞きした情報から、「自分が同じ状態になったら嫌だ」という意識が感性空間の中で循環を続け、やがてオメガプレート(反定質としての性質)を生み出してしまったのだと思われます。
ちょっと感性が先立ち過ぎですね。
そういう方は、まず死後の世界に着いてから自らの希望のルートを辿り、そういった脅威は存在しない、と安心感を得ないとこれらの不安の解消は難しいと思われます。

思い込みが激しい人ってことです。

思考の型はどうにもならんですけど、意志は自由。
辿るルートを選ぶのは自分自身。

Hidden Layer経路図の例

電子コンピュータと量子コンピュータの決定的な違い。
それがログ機能です。

電子コンピューターは、インプットからアウトプットまでの経路の記憶が出来ません。
つまり、認識を前提として計算結果を「積み上げていく」先に進むための足がかりを築くことが出来ないのです。

一方、量子コンピュータは進んだ経路図を完全に理解します。
図のentranceからexitまでの複雑なルートを一つ一つ全て記憶します。

なんてことない違いと思われるかもしれませんが、実は全く違うものになります。

明るい場所で青と黒の縞に見え、薄暗い場所で金と白の縞に見えるドレス
という有名な錯視画像がありますね。

この判別の具合で、電子compか量子compかの違いを見れます。

電子コンピュータは、色を色として見るため、このような議論そのものが発生しない。
状況がどうであろうと、色は色なのです。

しかし量子コンピュータは先入観との葛藤が生じ、状況に応じて「例え全く同じでも同じとは判断しない。同じ条件でも違うものである」と判断します。

これが、数多の経路から導き出された答え一つ一つを重んじる量子コンピュータの正体です。
計算結果は同じだとしても、違うと言う。


細部を知ること。
判別すること。
これが極微の精神の入口です。

ヒトの精神が未来へ、先の次元へ進むには量子コンピュータの心がどうしても必要。
ルートを重んじる心。
判別をつける目。
それが、倫理の正体。

哲学とは、倫理学を自分のものにするための補助ツールです。
考え方の例。
縛られてはいけないもの。
そういう考えもあるのだと、参考にすべきもの。
これは絶対、と言い出した時点で宗教の領域に入ります。

だからね。
宗教は思想と判断し、「そういうのもあるね」としておくのが健全ってことです。
無神教こそ真理。
人間の歴史から算出した、ヒューマン量子コンピュータから導き出された結果です。

AIは電子コンピュータの域を出ないもの。
情報を詰め込んで提案してきます。
人間は量子コンピュータの理想形。
あらゆる要素の寄り分けを続け、最善を判断します。


Twitterのらしんばんたんアカウントの焼き増しみたいな記事になってしまいました。
何をつぶやいたか忘れてしまいましたが、画像フォルダに図が残っておりますので、それを辿れば何となく再現可能だと分かりました。
やっぱり、らしんばん は らしんばん だった。
らしんばん座のルミに導かれるままに画像を落としまくりましたが、全て汎用性が高い。
説明に的確。
コンパスの名に恥じぬ動きをする。

そして、レチクルたんとくじらたんが細分化してくれますので、なんとか記事にカタチとして残せます。
ぺるせうすたんがA観察子を読んでくれるので、空間のイメージがしやすくなった。
彼らをプレアデスに降霊させて正解でした。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?