渇愛

渇愛

愛とは何?
対象を深く識ること。

どんな慈しみも
どんな励ましも
どんな援助も
どんな言葉掛けも
どんな手厚いケアも

真の意味でその人にとっての愛となるか分からない
そこに安心を覚えるとは限らない
押し付けになると愛という皮を被った弑逆にもなる
どんなに良かれと思って行動しても
どんなに慈愛に満ちた行動であっても
理にかなったものであっても

納得されなければ
理解して貰えなければ
心からの歓びを得られなければ
愛とは言えない

難しいものなのです
愛は
愛の鞭に感謝の念を抱く人もいれば
恨みを抱く人もいる
そもそも愛のムチなんてのは自己満で
本当に気心の知れた相手にしか通用しない
繊細で複雑でとても難しい
それが 愛

ということで、愛となるものを明確に定義することは出来ません。
しかし、愛がなければ人は生きていけない。
幸せにはなれない。
ではどうすれば良いのか。

識る努力です。
相手を見て、尊重して、何を想い考え望んでいるのかを探るのです。
傾聴に徹し、訴えを受け取るのです。
そこから愛が始まります。

望む通りに、ニーズに応えて。
勿論、全てに対して応えることは出来ません。
あなたは、奴隷ではない。
だから、努力だけでいいんですよ。
全てできるなんてのは思い上がりになるので、愛のコンセプトから外れてしまいます。
双方が出来るだけ納得できる環境。
円満に済む道を模索。
それこそが、愛への第一歩。

その人のマイブームに合わせて、角が立たぬよう気をつけて。
思いやりと自己主張のバランスをみつつ、最善を探し続けます。
一時の癒やしなら全開で、多少の心と心のバランスを崩してもいいかもしれませんが、長期戦が見込まれる時は保身が第一です。

自分も大事に。
相手を思いやりすぎて気を遣わせてしまっては、却って相手に失礼があるかもしれませんからね。

相手への愛のカタチは、表現もそうですが心の容量もあります。
心の容器が小さくてすぐに満たされる相手なら少しの愛で円満な関係が望めますが、中にはザルな人もいます。

自分は何が欲しいのが分からないひと。
欲望の果てに何があるのか無自覚であると、見当違いな欲求をすることがあります。
子どもが、本当は玩具そのものを欲しがっているのではなくて、買ってもらえるという行動を求めていた。
そんなどこに焦点が当てられているのか分からない、不確かなもの。
観察が求められます。
だからこそ、相手を識る必要があるのです。

求めているもの。
どのくらい与えれば、心の底に届くのか。
そしてピンポイントの愛情クリティカルが決まれば、すぐに心の器がいっぱいになることもある。
甘えだったり、寂しさだったり、承認欲求だったり。
その見極めが出来れば、愛情を与えられる、と公言が赦されるかもしれません。
自己満足は愛とは言えない。
だから、これも本当の意味の言霊と同じなのです。

日本書紀に出てくる、葦の船の神話。
イザナギとイザナミの最初の子、ヒルコは手足のない状態で生まれました。
次の子のアワシマは、身体すら持たぬ幽体の状態で生まれた。

3歳までに足腰が立たなかった為に、ナギとナミは二人を葦の船に載せて流しました。
正確には、かなり年齢が経って人間で言う還暦を越えるくらいまで世話をされていたそうですが、二人は自立することが叶いませんでした。

そういう経緯もあって、可愛い子には旅させよ、の精神で二人を旅立たせたのです。

外部の世界に揉まれて、心身とも強くあらねばなりませぬ。
それは、神霊界に生まれた者としての宿命でもあったのです。
神としての役目を果たす為、世のため人のため。
巡り巡って自分の為に、奉仕の心を以て還元せねばなりません。
それが、ヒトの上に立つものとしての努めでもあります。

しかし、一つ誤算がありました。
アハシマは一人でも生きていく能力を持ち合わせていましたが、ヒルコにはそれがありませんでした。
ヒルコは親に棄てられたと嘆き悲しみ、世界の全てを恨んでいます。
それから幾億年の月日が流れて、ナミの転生体とヒルコは再開を果たしました。
そこで、ヒルコはナミに対して、支配と権力と贅を求めました。
ナミは黙って全ての欲求を叶えましたが、それでもヒルコの心が満たされることはありません。
かの神は、永遠に全てに対して欲求を続けるのです。

これは、子どもの頃のトラウマでしょうか?
違いますね。
子どもの頃からずっとヒルコはナギとナミから一心に愛情を受けていた筈です。
流されよう流されまいが、ヒルコはずっと愛情を求め続けるのです。

そう。
つまり、ヒルコは渇愛を司る神様だったのです。
どんなに深い愛情と溢れんばかりの物とに囲まれても、決して満足することがない存在。

それが、手足のない、ヒトとして何かが足りないという象徴。
ヒルコ神です。

アハシマは、心の泡の神です。
泡というのは、驕りとかマウントなど煽り、貶しの心、優越、うぬぼれなどを指します。
これはかなり奥深い感情で或るため、一概に全てを語り尽くす事は出来ません。
誰でも持っています。
無意識下にて、心の泡は肥大化していきます。
しかし、これは悪いものとは言い切れないのです。
泡による肥大化が無いと、真実を見極めることが出来ません。
ヒルコの渇愛も同じです。
底なしの欲求が無いと、時代が動かない。
この2柱は、宇宙の流れを作るための動力源。機動エンジンのような重要な役割を果たしています。
人類存続の為には、なくてはならない存在であったのです。

ヒルコ
アハシマ
アマテラス
ツクヨミ
スサノヲ
カグツチ

その後に続く大勢の神々。

全てが必要であり、重要。
だから産み出されたのです。

全人類の平和と安寧の為に、神々は象徴としてその役割を果たしています。

何事も、やってみなければ分からない。
動かしてみなければ、口に出してみなければ、解像度を上げることは不可能。

解像度が上がれば、様々な事柄が視えてきます。
詳細が分かれば、その時の自分に出来る最大限の努力をして対応することが出来ます。

最適解、適切、は必ずしもそうとは限りません。
それでも、やるしかないのです。

為せば成る。
為さねば成らぬ何事も。
成らぬは人の為さぬなりけり。

これを傲慢な言葉だと思う人も少なくないはずです。
しかし、やらない善よりやる偽善、です。

愛のためには
模索を続けるためには
DoとBeの精神を以て行動し続けねばならない。

On ne fait pas d’omelette sans casser des œufs.
卵を割らずにオムレツを作ることはできない

時は傷つき、惑い、悩む。
それでも、前に進む努力を怠ってはならぬのです。

ひとつ数えて進めばいい
ふたつ数えて休めばいい
みっつ数えて考えりゃいい
マイペースで進めばいい

愛とは何?
対象を深く識ること。

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